だらだら。
ドラフト。
だらだら、内容はいろいろ。
まとまってません。
それを使う側の人たちが、クリーンランゲージのことを、どんな技法だと捉えているかというと、これまたクリーンランゲージらしく、さまざまな答えがそこには登場するのを見たり聞いたりする。
愛。
信頼。
寛容さ。
希望。
創造。
平和。
調和。
共鳴。
その他いろいろ。
発展、進化。
多様性の尊重。
自由。
これらを眺める時、ああ、そういうものが、地球上に増えていく瞬間を、その人たちは見たんだなと思う。
面白いのは、そこに、癒しという、クリーンランゲージのそもそも最初の用途だった言葉を、あまり見ることがないことだ。
たしかに深い癒しも生まれるが、癒されることそのものには、今、クリーンランゲージを使う人の多くは、そこを主としては、着目していないということだろう。
これは、私自身もそうである。
癒しは、目的でもゴールでもない。
その先へ進むために、必要であれば起きることだ。
また、癒すだけの技法であれば、クリーンでなくとも同じことができる技法は、山とある。
私がクリーンランゲージを評価しているのは、人を立ち止まらせない力が、そこに働くことだ。
前へ、未来へ、過去ではなく今へ。
それは、癒しを主としていた、オリジナルのクリーンランゲージの使い方ですらそうだ。
そもそも、使われる質問は、全て、現在系の質問であるし、最初に尋ねる質問は、未来についての希望だ。
これを、民間のセッションが行われる癒しの場ではなく、戦場でのPTSDや、幼児虐待の被害者がいる場所で使用した、デイビッド・グローブは、すごいと、純粋に思う。
辛かったね、から、はじめていない。
そこにラポール(意図的に作る深い信頼関係)はあるけれど、共感することからははじめない。
その人自身に、望ませる、望めなくても想像させてみるところからはじめている。
これは、人間を信頼していなければできなかっただろう。
私が、クリーンランゲージに触れて、それを使ってみることで、いい効果が得られると思っている人のひとつは、「他人を信用できない、他人を信頼できない人」だ。
いかに、他人が持つ力が素晴らしいか、どの人も豊かな創造性や個性、底力に満ち溢れているかを、クリーンランゲージを使うと、自分の目や耳で、見聞きすることができる。
それは、他人を信用すること、他人を信頼することをサポートすると思われる。
ああ、人間って素晴らしいと「再び」思える。
再び、というのは、対人支援の仕事をしている人は、人の心の闇にも、しばしば触れる。
気をつけないと、疲れ果てる。
人間を信じられなくなるような経験する確率も、他の仕事より多いかもしれない。
逆恨みされることだってあるかもしれない。
それでも、それが、自分に与えられた能力ならば、その人たちは、その場にとどまり、自分を傷つけながらでも、対人支援を続けようとする。
クリーンランゲージは、支援される側だけに素晴らしい効果をもたらすだけじゃない。
支援者側のことも、勇気づける。
支援者側のことも守る。
私が知る限り、支援者側に配慮があると感じられた技法はクリーンランゲージだけだ。
相手の言葉しか使わない、というやり方がもたらす恩恵は、支援される側だけにあるのではない。
支援する側にもある。
そして、信頼や希望や愛や平和、共鳴、寛容、創造、その他もろもろ、人の美しい力を山のように見ることになる。
自分が泥だらけになって、相手のとっ散らかった空間から、へ泥まみれになっている宝石を見つけてあげる必要はない。
クリーンランゲージでなら、本人が、まず、へ泥を他人には到底思いつかない方法でなんとかするか、または、宝石が空中に浮かび上がってくるかなんかする。
「ここに宝石がありそうですよ」と教えてあげなくても、誘導しなくても、それは、ちゃんと見つかる。
自分が泥だらけになる必要はない。
他人のゴミ箱に、なってあげる必要もない。
ゴミは、本人に片付けさせられる。
疲れずに、対人支援を続けていける。
人間を好きなままで。
クリーンランゲージは、すでにその人が使える他の技法と、混ぜて使いやすい。
それまた、いいなと思うポイントだ。
.......
(ここから少し、話が変わります。)
そして、オープンソースだ。
資格ビジネスにはなっていない。
これは、非常に珍しい。
使い方を教えてもらうのにお金を払うことはあるが、それは、資格を取るための講座ではない。
認定はあるけれど、認定がある人とない人の差は、正直、よくわからない(笑)
技術がある一定レベルに達していますという証明にはなるが、しかし、まあ、認定試験もトレーニングみたいなもんでしかない。
実際、これは、私自身の経験だが、私の認定試験は、1回目は落ちた。
2人の人が、セッションを判定するのだが、2人の評価が割れたからだ。
先生の1人は、エクセレント、という評価だった。
もう1人の先生からは、非常に細かいところを何点も指摘された。
なぜ、あれを確認していない?
なぜ、あそこをつっこんでいない?
なぜ、その順番で質問を使った?
どこから、その質問は来た?
何をしようとして、それを尋ねた?
なぜ?
容赦ねえな、と、私は思った。
(英語だ、英語。確認しなかったというか、聞き取れてなかったよね!しかし、絶対に、それは言えない。意地でも言わん。
クライアントには君の英語力は関係ない、自分でどうにかしろと、ぶった斬られて終わりである。笑)
だが同時に、深い愛情を感じて、指導に感謝した。
彼に直接、セッションを見てもらえる機会は少ない。
採点が厳しかったのは、クリーンランゲージ&シンボリックモデリングの構築者その人だった。
構築者は2人いるが、この人たち、なぜだか知らぬが、私の認定に厳しい。
そんなん他の人もできてへんやないかというのでも、落とされる。
彼ら、認定に重きをおいてはいない。
私はノートを使ったという理由で、一度、落とされたことがある。
そんなん全員使っとるやないかいと、私は思ったが。
覚えなさい、記憶しなさい、と、言われた。
私は、だいたい、1回目は落ちることになっている。
それもあって、日本で習ったことは全部忘れると、私は決めたのだ。
同じようにやって、日本では、楽勝で認定に通ったからだ。私の成績はよかった。
私には、何が違うか、その全てはわからなかった。
いい悪いの話ではなく、忘れなければ認定に通らないということだけが、私にわかったことだった。
質問の翻訳以外は、英語で習ったことしか知らないことに、頭の中を変える必要があった。
それで仕方ないので、日本語のクリーンのテキストをもったいな〜い!高かったのに〜!と言いながら、ついに全部捨てて、私は、ひいひい言いながら、英語のテキストを翻訳した。
自分自身の理解を、一から作るために。
そして腐っても英文科卒業だったことに、死ぬほど感謝した。
私は、読み書きは、辞書さえあれば、まだなんとかできたからだ。
認定試験の2回目。
厳しい方の先生には見せないというやり方を1人目の先生はしてくれた。
私の英語に配慮してくれたのだろう。
私も工夫した。
クライアントを、私自身のほんとのクライアントで、ある程度クリーンに慣れている英語が話せる日本人の人にお願いした。
日本人の英語の発音は、聞き取りやすいからだ。
日本人なら、細かい知らない副詞とか使わないし。
(副詞をいつも尋ねないのはなぜだ?と、突っ込まれたからだ。尋ねないんじゃなくて、聞き取れてない。)
私を試験に通すのに協力して欲しい、簡単な英語で話して欲しい、簡単なテーマを出して欲しいと、事前に頼んで。
そして、通った。
1人目の先生は、その認定が、私にとって何を意味するかを把握していた。
それは、私にとっては「自由への切符」だった。
広い世界の中で、自由に生きるための。
実際、試験に通ったけれど、私はまだ、魔法使い見習いのままだ。
あと、最低10年ね。
まず、英語ね。ほんまにな。