選択基準がチャラすぎる話

 

つづき。


昨日、私は気づいた。

自分が何を基準に物事を判断しているか。

よくよく考えて見ると、それは全てに関わっているようだった。


自分が何気なく口にしていることを振り返ってみても、そこに関わるコメントを私はよくしていると気がついた。


かわいい。

綺麗。

素敵。

ダサい。

カッコ悪い。


精神性に関わることから現実に至るまで、それは多岐に及んだ。


それで思い出した。

私は、成長時期のある一時期に、クラスのほとんどの子がいじめた男の子のいじめに加わらなかったことがある。


私は、どうして1人ずつでやらないのだろう?

ほんで、あんたもなんでやられっぱなしやねんといじめられる子にも思っていた。

ダサい、かっこ悪いと、クラス全員について思っていた。


私が優しい子でなかったことを明らかにするエピソードとしては、そのいじめられていた男の子が、卒業後、私に連絡してきた時、私がけちょんけちょんにその子をボロクソに言ったこと。

その子は、クラスの中で私1人だけが優しかったと言った。


私は、つるんで人をいじめるのがカッコ悪いと思っていただけで、その男の子のことは嫌いだった。



昨日、ああ、全部基準はそれだと私は気づいた。


かっこいい、綺麗、かわいい、素敵。


そうかそうじゃないか。


自分がそう感じるか感じないかで、私はいろんなことを選択してると、私ははっきり気がついた。


とても個人的な感じ方だ。

何をそう思うかは、人によって違う。


ようするに、好きか好きじゃないかだけで物を選択しており、その好きは、かっこいい、綺麗、かわいい、素敵にそれが入るか入らないかで決まっているようだった。


好きの根っこにあるものは、私の美意識だ。


私は、やっぱりチャラいなという気づきだった。