誰もがマイノリティの時代

 

今年はブログはもう終わりの予定だったけれど、1本。

今朝、浮かんだこと。

ここから先の話。


マイノリティとしての自分を受け入れることができた人が、ここから先は強いのではないかと思う。


突き詰めていくなら、誰もがマイノリティだ。

個性は同じものがない。

自分には個性がないと言う人は、個性の概念の解釈に問題がある。


個性は、個の性(分、格など)で、必ず、誰にもある。

個は、唯一無二で、必ずマイノリティだ。


個性があるかないかに差があるように見えることがあるとしたら、個性を追求しているかいないかの差だけではないかと思う。


個は必ずマイノリティだ。


マジョリティであることが優位性を持つ社会の中では、マイノリティであることは自覚する必要がないし、むしろ、穏やかな暮らしを邪魔することさえあるかもしれない。

みなと同じように感じること、共感の力を使って、できるだけマイノリティを作らないということは、これまで平和を保つ方法でもあったかもしれない。



ここから先は、おそらく違う。


共感しようもないものがたくさん現れる。

理解しようもないものと、争わずしてやっていく必要がある。


世界がYoutubeになるみたいな感じ。


Youtubeの中、表現者の人たちは淡々と個性を発揮している。

見る側は、共感できない!とコメント欄で騒いでいたりするが、個性を発揮している人には優位に働く。

再生回数が伸びるからだ。


Youtubeはコメント欄をクローズできるから、コメント欄を閉じる閉じないは表現者側の自由。


他者の共感を得るかどうかに心を割くより、自分がやりたいこと、自分の個性を追求している、その中で、味付けを他人が理解しやすいように工夫している、そんな感じがする。



それには、自分の価値観をはっきりさせておく必要がある。


個性については、価値観がからむ。

行動の多くは、その価値観をもとに行われている。



と、偉そうに書いてみたが、これは昨日、私自身が気づいた、自分の人生を左右してきた一番大きな価値観についての種明かしを、私の中がしてきたのだと思われるので、次は私の話。