格差の構図
やっぱ、そやでなあ、と、私は昨日思った。
格差が生まれるひとつの構図についてだ。
この人については遠慮なく書くが、私と夫に起きることには格差がある。
昨日は2人の母から、同時に贈り物が届いたのだが、その中身を確認して私は、また格差!と思った。
中にはそれぞれ、私の好物が入っていた。
2人の母は、夏と冬に存在する日本の習慣通りに贈り物をする。
私はしないが、この9年、それは毎年届いた。
最初、それは、夫と私の2人が食べそうな当たり障りのないものや洗剤や飲みものだった。
9年経った今年、2人は、私の好物を送ってきた。
プリンと数の子。
夫の好みについては無視である。
夫の母に至っては、息子は食べられない賞味期限のものを送ってきたから、つまり、これは、私だけへの贈り物だ。
それぞれの母にLINEを送り、自分の母には、どちらも私の好物だったと書いたら(母は、娘が数の子フリークで、お正月、小さな頃からそればかり食べるのを知ってはいる)、母は返してきた。
「言ったもん勝ちよ。」
そして、私は思った。
これが、格差を生む一つの構図なのである、と。
何を普段話しているか、自分が表現するそのトピックの選び方。
やっぱ話したり、表現したりするのは、自分が好きなもんの話がいいでなあと、私は思った。
嫌いな食べものについては、話をする時間は、完全に無駄だが、好きな食べものの話は楽しいもの。
私は、好きなものを好き好き言う。
夫は、言わない。
その差が10年の間に、2人の母が送ってくる贈り物に差をつけた。
私は、「好い目」にあうことが割と多い。
私が特に運がいいわけでも、恵まれているわけではなく、これは単に、私は普段から自分の好きを言いふらしているからだと思う。
これ好き、あれ好き。
すると、あなた、これも好きなんじゃない?という情報や、これ好きでしょあげるわという人、これ好きそうよ、やってみる?という機会がちょいちょい登場する。
情報、物、機会。
好きなものが、自分が出向かずとも、向こうからやってくる。
人は、人を喜ばせたい生き物だからだ。
喜んでくれる人を人は探している。
情報や物や機会も、自分を愛して、価値を認めてくれる場所に行きたい。
愛してくれるところへ、情報や物や機会は訪れる。
格差には、いろんな種類の格差があるが、その中のいくつかは、自分が表現すること、話すことと間違いなく関係していると思う。