感覚の個性
感覚には個性がある。
日常的によく感じる感覚は、人それぞれだ。
ひとつ前に、何かを選択する時、私はワクワクを重要視しないと書いたが、それには私の感覚の個性が関係する。
ワクワクが、サインとして機能するのは、それが、当たり前の感覚でない時だ。
サインは、よくも悪くも、何か違和感があるものである必要がある。
当たり前のものは、サインには使えない。
私は、しょっちゅうワクワクし、ワクワクは当たり前の感覚で、だから、私には、ワクワクは、サインとしては機能しない。
例えば、友達と話しているだけ、ゲームしてるだけ、見たものがないものを見た時、知らない場所を歩く時、何かを見つけた時など、非常にしょうもないことでワクワクしてしまうのだ。
私の日常の中に、ワクワクすることは当たり前にたくさんある。
私がワクワクの代わりに採用しているのは、自分の中が、おしゃべりをやめて、しんと静まる感覚だ。
何かひらめいた時、何かを聞いた時、自分の中がしんと静まったら、それはGOだ。
しんと静まる感覚は、私自身が、何かの始まりを私に告げている。
または、話を聞いたり、何かを思いついたりして、何も感覚を感じない時、それはまあまあGOだ。
やめとけ、ではない。
それから、胸が温かくなるような気がした時、それはGOだ。
ワクワクしてももちろんGOだが、それは当たりを告げているとは限らない。
その時、私が楽しい気分であるだけだ。
いずれにしろ、私は、何かを選択する時、胸の感覚に意識を払う。
そこは、ワクワク理論と同じだ。
ただ、そこにあるか確認する感覚が、自分の個性に合わせたものなだけだ。
感覚には個性がある。
サインは、いつもいつも誰かが決めた感覚とは限らない。
サインは決まっていない。
そして、いつもわかりやすい感覚とは限らない。
個人的にはそういう見解でいる。