個人の経験

さて。

今から繰り広げられるそれが家族のものがたりだとしても、体験するのは、私個人だ。

ここは非常に重要なポイントだ。
例えば、天災がわかりやすいかもしれないが、同じことが複数人に起きたとしても、そこでする体験は個人個人、異なる体験だ。

少し前に、私が住む地域は大きな台風を経験した。
被害の差はもちろんだが、その時の感想は、怖かったひとつではない。
実際、ある人は怖かった、ある人は楽しかった、ある人は人とのコミュニケーションが嬉しかった、と分かれている。

ある楽しかった人は、家が壊れたが、それでも、楽しかったと言った。
久しぶりに近所付き合いが復活し、それがとても楽しかったのだそうだ。

起きる出来事という事実は同じでも、体験として記憶に残るものは、個人により異なる。

出来事は変えられないが、どのような体験をしたいかは、それがどのような状況であっても、ある程度は引き寄せがきく。
自分でも生み出せる。

人生に受け身でいなければ。
受容することと、受け身でいることは違う。


私は、そういう視点で、再び未来を少し眺めてみたあと、今に目線を戻し、リソースを探した。
シンボリックモデリングの手順通りに。
メタファーにする時間はなかったので、それはしなかった。

不安は消えていた。
私について、私は不安を抱えていない。

私がいる。
母というリソースもいるし、妹もいるが、私もまたいる。


全て、後からは笑い話のために必要なものは、信頼と希望という、あまりにも当たり前なものだとわかった。
あと、笑い。

非常にシンプルである。


そして、私は、二十代のあの日、自分のことに取り組むと決めた、どん底まで追い詰められた自分を褒めてやりたいと思った。
彼女ががんばらなかったら、私は、今、実家の家族に関われなかった。

私がいるから大丈夫だ、と、母にも言えなかった。
あなた、よくがんばったよ、と思った。

あなたは、きっと信じられないだろう。
自分のことすらどうにもできないあなたが、二十年後のある日曜日、電話、LINE、メールと三方向から三人から入る内容の違う相談ごとに同時に対応している未来があることに。

大丈夫だ、と未来のあなたは言い切ることに。

お母さんから逃げることしか考えなかったあなたが、未来でお母さんと一緒に協力しようとしていることに。
むしろ、介入しすぎないように気をつけないといけないとすら考えていることに。

お母さんが最初に頼ったのが、あなただったということも、絶望の淵にいるあなたには信じられないだろう。

あなた、よくがんばったよ。

私がいる、と今、私が思えるのは、私自身を家族のリソースだと考えられるのは、あなたが人生を投げ出さなかったからだ。


さて。
私個人の経験として、この後起きることは、日曜日の私が教えている。
それも昨日だがもう過去だ。

私がとりあえずすることは、気楽に相談に乗り続けることだ。
相手に家族が加わるだけだ。

信頼と希望を抱きながら。

大丈夫だ、と。
大丈夫だ。