違う、やめておけ、というサイン

私は、自分の直感やひらめきは信じるが、特に信じることにしているのは、あ!という明るいひらめきではない。

違う、という違和感だ。
やめておけ、という違和感。

だいたいこの違和感は、何かを選択しようとした時に起きる。
そして、NOを自分が言うと、めんどくさいことが起きそうな時に。

それを選択するとよくないとはっきりわかる時ではない。
何かいいことをだれかが申し出てくれた時や、それ自体には何ら問題はなさそうで、むしろ、自分がそれにYESを言わないことの方が問題を引き起こしそうなくらいに感じられる時だ。
NOと言うと、めんどくさいことになりそうな気配すらあるような。


それでも、違和感があり、自分の中の何か違う、やめておけ、と伝えてきたら、それはNOなのだ、YESといえばめんどくさいことになるということを、体験から学んだ。

めんどくさいからYESということが、後からもっとめんどくさいことを引き起こしていくこと。

自分がその先に何も望まないときは、YESといってはいけないこと。
流れが一度生まれれば、そこに飲み込まれていくこと。
そして、飲み込まれた流れから抜け出るのは、それなりに大変だということ。


選択するタイミングは、いつも、自分の手の中にあるというわけではない。
向こうからやってくることも多い。

よりよい選択は、そりゃもちろん、胸のときめきやすっきり感がサインだが、よりよい選択をしないまでも、よくない選択をしないことは重要だ。
やってくる流れの方が、自分が生み出す流れよりも、頻度はずっと高い。

そのやってくる流れについて選択する時、いつもいつも未来をよりよきものにする努力をせずとも、ただNOといえるだけで、よりよい方へ進むことすらある。

違和感、違う、やめておけ。
それを無視しないこと。

それを無視すると、どうなるか、それは昨日書いた。


やめておけ、と結婚前の私に、何回も私は知らせた。
違う、と胸騒ぎしかしなかった。

私は無視した。
何度かは破談にしようとしたけれど、失敗した。

わたし、は、うまくいかないことを知っていた。
私の体の感覚は、私に、それを教えていた。


まあ、何事も体験ということにしてあるけれど、NOをやりきらないと大変よということを私はそこから学んだ。

それでも、なかなか、はっきりNOは難しかった。
上手にNOは、YESよりずっと難しい。


今は、違う、やめておけ、のサインは、やりたいことよりも大事に扱う。

やりたいことをやらなくても、人生がちょっと退屈なだけだが、やめておけを無視すると、めんどくさい目にあう。


人に対しての目線も変わった。
前向きな人かどうかより、その人が他人のNOを尊重できる人かどうかを見る。
YESを強要する人は、私にとっては要注意人物だ。
あまりお目にかかる機会はないが、それは、自分のアウトカムだけを優先させる人だ。


人生は、多くのアウトカムが絡み合う。
自分のアウトカムだけで生きられる人は、ほとんどいない。

つまり、他人のアウトカムの中のリソースに、自分が加わるかどうか、それが、いつでも向こうからやってくる流れだ。

私は、自分がワクワクせずともそこには比較的軽く加わる。
基本はYESだ。
私には、絶対に人生の中で達成したい何かがない。
使命感もない。
生き抜くことだけが、人生の目的だ。
自分や周囲が幸せであればそれでいい。
だから、流れを自分から作るより、向こうからくる流れに乗る方が楽だ。

ずぼら。笑
全部、自分で生み出す必要などない。笑
人に協力することで、流れはいくらでも生まれる。
誰かが自分を必要とするなら、基本は手を差し伸べることにしている。


ただし、違う、やめておけ、がないということが絶対条件だ。
ワクワクよりも重要だ。

ワクワクは、自ら、ワクワクするように作っていくことができるので、それほど重要視していない。
関わると決めたならば、そこからは、自分も生み出す側だ。
いくらでも楽しくできる。
知恵と工夫は、そのためにある。
だいたい、しょうもないことで、私はワクワクしてしまうし、期待感は外れることも多いから。

あら、、、と意外な展開はよくあることだ。

しかし、違う、やめておけ、は外れない。

不思議なことだ。