PRO(1):「私、自分の人生が嫌いなんですよね」と答えた人に、さて、なんて質問する?

本日は、「今、一からシンボリック・モデリングやクリーンランゲージを習っている人」もしくは「リハビリ中ファシリテーターさん」が、ちょっとだけ頭の隅っこに置いておくといいかな・・・と思う話を。

PROについての話をシェアします。
とりとめなくなると思うので、「話がようわからんわ」と思われたら、スルーしてください。

ひとつだけ、今日の話と関連することで、誰でも、最初の最初から頭に入れておいた方がいいのは、「クリーンランゲージもシンボリック・モデリングもボトムアップの技法だ」ということです。
これは、「シンボルは名詞」、「質問は機能と作用も一緒に覚える」と同じくらい大事なことです。

もしも初心者さんがこのブログを読んでいるなら、今日のブログでひとつだけ、覚えておくのはボトムアップ
ボトムアップは、トップダウンと逆の意味です。

どういうことかと言いますと、私の解釈では、「枠(フレーム)には、はめこまないよ」ということです。
「決まったやり方は何もないよ」、「クライアントのやり方でいくよ」、ということです。

あれ?
フレームワークをいっぱい習うじゃない?
質問の使い方の順番はこれだって習うじゃない?
この手順で進めますって習うじゃない?

はい。
それは、あなたが初心者だったり、学習者だったりするからです。

それらは、「その手順通りにこなすこと」、「そのフレームにあてはめて、クライアントに思考させること」を目的には存在していません。
それは、ゴールではありません。

それらは、「ファシリテーターや学習者をサポートするため」に存在しています。
「その通りに再現すること」、「その手順で行えるようになること」を目的としては存在していません。・・・というのが、私の解釈です。

経験値が低いときは、まずは、そのフレームを使ってやってみれば、「ある程度は」結果が出せるというものが、最初の最初に習うフレームです。

だって、クリーンランゲージ&シンボリック・モデリングは、ボトムアップの技法だから。

「決まった手順は最終的にはない」
「モデルは山のようにある」
「あなた自身が見つけることになるモデルもあるかもしれない」

正しいクリーンランゲージの使い方や、シンボリック・モデリングの使い方はございません。

なぜなら、ボトムアップの技法だから。
それで、実にさまざまな内容、パターン、問題、望み、状況を扱うことができます。
山のようなモデルが存在します。(私はまだ、ほんの一部しか知りません)

(ここに関連して、「ゴーイング・ライブ」という考え方の概念がシンボリック・モデリングにありますが、これは、また、別に書きます)

ここまでが、本日の記事の中で、初心者さんが覚えておくと後が楽だよということでした。

あなたが勉強しているその技法は、ボトムアップの技法です。
だから、何か手順を覚えるというのではなく、クライアントと「共に/一緒に」クライアントの世界を探究する姿勢を覚えるつもりで学習すると、楽ちんじゃないかなと思います。

このクライアントと「共に/一緒に」というのは、私がジェームズ・ローリーと続けてきたやりとりの中で、ジェームズが繰り返し、強調していたことです。
クライアントと「共に/一緒に」、あなたもクライアントの世界を発見していきます。

あなたは、クライアントの世界について、最初の時点では「何も知りません」
自分は何も知らないということをよく覚えておくことも、セッションを楽にするコツのひとつだと思います。(知っていることが邪魔をします)

(自己啓発でシンボリック・モデリングを学習されている方にとっては、そのクライアントは、「自分自身」の場合もあるかもしれませんね)


・・・・・・・

さて、ここから、少しマニアックな世界に入ります。

先週の木曜日から、いえ、もっというと、私がシンボリック・モデリングの日本語での取り扱いについて、ずっと取り組み続けているのは、このPROの部分の話が主であるといってもいいかもしれません。

特に、セッションの最初、まだ、クライアントがサイコ・アクティブ(精神的に活性化された状態。必ずしもトランス状態ではないのでご注意を)になる前の段階のPROです。

サイコ・アクティブになった後にも関係する違いもあるのですが、私が、「言葉として」大きな違いがあると分析しているのは、サイコ・アクティブになる前に、「話を、どっちの方向に向かって進めていきましょう?」と、クライアントとファシリテーターの双方で合意形成をする段階です。

まあ、契約書の内容に英語と日本語で違いがあるみたいな感じです。

サイコ・アクティブになった後にも、「認知の違い」が多少あると感じていますが、それは、サイコ・アクティブ前ほどの違いはなく、文化による認知の差よりも、個人による認知の差の方が大きいと感じています。

私は、自身のトレーニングは、この数年は、英語で受けていますが、その中でする練習セッションの時に、サイコ・アクティブになった後のクライアントの反応自体は、少なくとも英語圏の人たちと日本人の間にそんなに大きな差は感じていません。

私は、英語でセッションするときは、一刻も早く、クライアントにサイコ・アクティブになってもらい、メタファー・ランドスケープの話にしなければ、セッションができないという超個人的理由を抱えています。
メタファーの話でならPROもそんなに大変ではないのですが、普通に抽象概念でPROを語られた日には、私は、多分泣くと思います。できません。
その話は、この土日に撃沈してきた世界です。概念、概念、概念。


けれど、メタファー・ランドスケープでなら、私は英語でも日本語でも、大体は同じようにセッションができます。なぜなら、私が理解する必要は全くなく、私はただ、クライアントが理解するのを手伝えばいいだけだからです。
そして、言葉以外の部分が実に多く関係してくるからです。
それは、日本語であろうが、英語であろうが同じです。
そして、この言葉以外の部分、ここは、割と共通している感じがします。
その人の国籍で反応に違いを感じたことは、今のところはありません。
その人個人の反応がそこにあるだけのような感じがしています。


最初のPRO。
これは、言葉、です。

そして、ある意味では、英語の方が(私の語学力が追いついたなら)、おそらくPROは簡単だろうと思います。

続く。