シンボルが上手に作れないとき
シンボリック・モデリングを使う人で、たまに、シンボルを作るのがうまくいかないという人にお会いします。
または、シンボルになっていないことに気づかない場合もあります。
本日は、一番わかりやすいのではないかと思い、人間という存在を使って、シンボルの発展のさせ方を説明してみます。
では、はじめましょう。
まず先に理解してください。
クリーンランゲージやシンボリック・モデリングを使う日本語しか話さない人(おそらくは、韓国語、中国語しか話さない人も同じではないかと推測している)が、自分が持っているかもしれない特徴で、いつもとは違うやり方をしなくてはいけないことを理解した方がいいだろうと私が考えている一つは、シンボルの把握の仕方です。
技法の原点に、技法以前に存在する西洋、東洋の物の把握の仕方で、特にシンボリック・モデリングを使うときに必要なその視点の違いが一番わかりやすいのは、名前、かもしれません。
私を例に使います。
私の名前は、石井ゆかり(ISHII YUKARI)です。
私という物体を世に表すとき、日本語では、私は、石井ゆかりと表現する。
つまり、私のシンボル名は、石井ゆかり。
これを、英語で書くと、YUKARI ISHIIになる。
二つの違いが、わかりますか?
どちらも、同じ存在を表します。
私という存在そのものには違いがない。
名前は、私の構造を変えない。
名前は、私の性格を変えない。
名前は、私の機能を変えない。
名前は、私の特徴の一部は表す。
名前は、私を把握する順番を変える。
ISHII YUKARIは、家族が先に来る。
私は、石井(ISHII)というグループの中に所属する個人だということ。
YUKARI ISHIIは、先に個人が来る。
YUKARIという個人が、ISHIIというグループの中にいる、または、ISHIIと関係しているということ。
全体が先か、個が先か。
シンボリック・モデリングは、YUKARI ISHIIの世界です。
つまり、個の世界です。
発展させるのは、YUKARI。
私をシンボルとして扱うときには、ISHIIは、YUKARIの属性(attribute/特徴)のひとつに過ぎません。
「そのYUKARIについて、他に何かある?」と問いかけて登場する答えです。
または、いきなりISHII YUKARIが登場したら、それは、「やわらかいパン」と同じ。
ISHIIは「やわらかい」と同じ。
YUKARIの特徴(attribute/属性)の一つです。
「パン屋さんのパン」を買ってきて、そのパンが「テーブルの上にあるパン」に変わっても、パンそのものは、変化しません。
誰か個人にとっての意味は変化するかもしれません。
たとえば、私が鈴木ゆかりなのか、石井ゆかりなのかは、私の夫には、大きな違いがあるかもしれません。
自分の妻なのか、そうではないのか。
(事実婚の話は、今はおいておいてね。笑)
けれど、YUKARIという存在の本質そのものは、ISHIIは影響は与えても、それは本質ではありません。
ただ、そのYUKARIは、山田ゆかりではない、鈴木ゆかりでもない、石井ゆかりだということ。
そして、さらに質問を続けることで、その石井ゆかりは、他の石井ゆかりとも違うことがわかります。
どのYUKARIとも違う、「その」YUKARIが世界に登場します。
そして、現実はどうかを少しみてみましょう。
私が生まれたとき、私には名前はありませんでした。
ただ、父と母との関係性、彼らが属する世界の中に、私は、名前を持たない存在として生まれました。
ただの存在として。
そこに、私の場合は、両親が名前をつけました。
YUKARI。ゆかり。
その名前にこめられたのは、「両親の思い」ですが、その思いは、どこから来たのかといえば、彼らのそれまでの人生の体験や記憶や、彼らの価値観や世界観の中での彼らの願いからです。
シンボルに名前をつけるその人、クライアントは、彼らと同じです。
そして、彼らは、私をISHII YUKARIとは名づけなかった。
彼らが私に与えた名前は、YUKARIです。
日本という社会の中で生きるとき、私はISHIIさんと呼ばれることも多々あります。
私がどのグループ(家族)に属するか、それを表す名前で、やや個人としての私とは距離がある場面です。
それでも、私を認識することはできます。
けれど、シンボルを作るのがうまくいかないというときには、私が観察している限り、ISHIIさんを見ている場合があります。
そして、ファシリテーターはそれで納得してしまい、話を次に進める。
どういうことかというと。
「何か少し丸くて、やわらかくて、噛むとほんのり甘いんです。それはパン屋さんにあります」で話を終わらせて、次に進んでしまうということです。
それは、まだ、ISHIIさんです。
YUKARIは登場していません。
つまり、「パン」が登場していません。
つまり、主役が登場していません。
少なくとも、シンボリック・モデリングの世界において、ISHII YUKARIの世界の主役は、YUKARIです。
ISHIIではありません。
それは、YUKARIを表す重要なパーツ(属性)ではありますが、本体ではありません。
その証拠に、私の人生の中で、ISHIIは3つ目の苗字です。
私の人生の中、私とずっと一緒なのは、YUKARIです。
パンやさんにあろうが、家のテーブルにあろうが、パンはパンです。
ただし、パンやさんにあるパンと、テーブルの上にあるパンは、誰かにとっての意味が違います。
そのパンにそのあと起きることも違います。
そのパンにできることも違います。
シンボリック・モデリングでは、YUKARIとパンの話をします。
ISHIIさんとパン屋さんは、YUKARIとパンの属性です。
つまり、何が言いたいかというと、人は属性から語り始めることが多い、特に、日本語話者は、ということです。
けれど、誰もが生まれてきたときにした体験は、名もなき存在に、シンボル名をつけてもらい、その瞬間、ただの赤ちゃんではない、あなたという固有の存在を他者と区別されることです。
名前がついたその瞬間、その存在は、赤ちゃんという命の属性だけの存在ではなくなります。
そして、誰かの人生に意味をもたらしはじめます。
つまり、他のものと区別して、意味をもたらすために、名前が必要なのです。
メタファー・ランドスケープは、世界です。
現実とは違いルール無用ですし、重力や三次元の性質の縛りもありませんが、そこは空想上の物質界です。
ISHIIとパン屋さんは、その中では、YUKARIとパンとは異なります。
別々のものです。
ファシリテーターは、YUKARIとパンを、クライアントがその世界に生み出すのを手伝う必要があります。
赤ちゃん、では、YUKARIを探せません。
パン屋さんにある無数のパンから、家のテーブルにあるパンは探せません。
YUKARIとパンを、見つける必要があります。
ISHIIとパン屋さんで納得してはいけません。
もう一歩だけ、踏み込む必要があります。
うまく書けたかしら?
こういう話を、4年間、私にさせ続けた人がいました。
もう聞いてもらえなくなったので、以後は、ここで練習します(笑)