翼をください
私が小学校の音楽の時間、最初に習った歌は「君が代」でした。
今考えると、日本から離れた場所にいて、生まれてから一度も日本の土を踏んだことがなく、もしかしたら死ぬまで日本に行くことはないかもしれない日本人の子供も混じっていたその学校では、「日本人というナショナル・アイデンティティ」を育むことにも熱心だったような気がします。
図工の時間、最初に描いた絵は、日の丸でした。
その学校には、来客が多くやってきました。
私が覚えているのは、総理大臣、オリンピック選手、お相撲さん。
そのたびに、小さな日の丸の旗を手ににぎり、パタパタ振って迎えました。
学校を出れば、ほとんどの人は外国人で、自分は日本人なのだと意識せざるをえませんでした。
そしてそれは、小さな私はまだ誇りという言葉を知らなかったけれど、間違いなく、私の誇りでした。
日本に帰ってきたあと、私は、ショックを受けました。
日の丸は国旗ではなく、君が代は国歌ではないと学校の先生が言ったからです。
そして、外国語を話したという理由で、三か月、いじめにあいました。
(そのあと、やり返しているので、これを世間のいういじめにカウントしていいかはわかりません。相手はむしろ、私にいじめられたという記憶を持っているかもしれません。)
ともあれ、外国人の子供たちに石を投げられることはあっても、日本人の中にはいじめがない状態からやってきた私にとって、同じ日本人からうけたいじめはショックでした。
「外国語を話すなんか、日本人ちゃうわ」と、昭和な時代の子供たちは言いました。
これは、外国で投げられた石より大きなショックを、私にもたらしました。
クリーンランゲージを英語で学びはじめたあと、いろんな人が私に言いました。
「あなたはすごく日本的ね」
あるとき、私の文房具を見た人も言いました。
「わあ、日本!って感じ」
コミュニティには、日本ファンの人たちがちょこちょこいて、自分が日本を訪ねたときのことを嬉しそうに話してくれることもあります。
そして、日本語のクリーンランゲージについて考えはじめたあと、私は、自分の中の日本人がどんどん伸びやかに覚醒していくのを感じました。
そして、つい最近、私はあるメールに書きました。
「私は、自分が考えていたより、ずっと日本人なのだろう」
数年前、あるセッションの中で、私は、「英語の翼(羽根)と日本語の翼(羽根)両方なければ空を飛べない」と言いました。
その羽根は、翼のことだったのだと、本日、気づきました。
「翼をください」
私のメタファーは、歌から生まれているものが多く含まれています。
記憶も音楽と結びついていることが多いです。
名前すら覚えていない、顔も忘れた昔の彼氏が、カラオケボックスで歌った歌は覚えていたりします。
友達と学校からの帰り道、歌いながら歩いた歌。
母と妹と一緒に歌った歌。
車の中で流れていた歌。
そして、「翼をください」は、日本に帰ってきて、最初に習った歌です。
この大空に翼を広げ飛んでいきたいよ
悲しみのない自由な空に
翼はためかせゆきたい
私が、ジェームズに最初にしてもらったセッションは「日本人なのに、日本人じゃない。心の底に孤独がある」というお題でした。
そのセッションは「心の中の国境線を取り払う」という帰結を生みました。
冷静に見れば、それはレメディです。
アウトカムではありません。
私が、クリーンな質問の日本語訳を探求する中で、自分に何が起きていたのか、「翼をください」という歌にたどりついたときに、理解できたような気がしました。
つい最近、私自身が、それはすでにメールに書いていました。
「私が、【証拠】です。私が、日本人にも、シンボリック・モデリングが作用するという証拠です。あなたのセッションを最初に受けたとき、私は英語で物を考えることはできませんでした。私は、日本語で考えました。その短い、たった10分のセッションが、私を今日ここまで連れてきたんです」
「日本人にも、シンボリック・モデリングは作用します」と。
私の抱えていた問題の中から、私が生み出したアウトカム。
それは、「日本人になりたい」ということだったのかもしれません。
その歌を知ったころの私の願いもまた、私を支え続けてくれていたのかもしれません。
そして、そのアウトカムを追いかけた旅の中で、生まれたリソースが、質問訳や、日本語でファシリテーションするときの組み立てなのかもしれません。
英語が持つリソースを落とすことなく、日本語が持つ豊かさを失うことなく。
より豊かな、より機能的な働きをする質問訳、組み立てを考えること。
私がたどってきた道のり、それは、問題がやがて、アウトカムを生み、リソースを生む、シンボリック・モデリングのプロセスそのものです。
今、まだ、ここにない新しい何かを生み出すこと。
そして、私は、自分の背中に、ふわっと羽根が広がったような気がしました。
緑の葉っぱを集めて作るといった羽根。
私が思っていたのとは違う、しっかりした重みのある、柔らかな羽根。
温もりがある羽根。
日本語の羽根は、魔法の世界の中で生まれたのではなく、私が向き合い続けた、日本語と関わる人たちの中で、姿を表しました。
私の中の愛、周りにある愛が、日本語の羽根です。
私が1人で育んだのではない、多くの人と共に作り上げた羽根。
そして、念願の羽根を手に入れた私は、空を飛ぼうとはしませんでした。
「虹色の橋」のそばに、「羽根が生えた私」は、ご機嫌に、ちょこんと座りました。
「橋を渡る人たちを手伝いたい」
それが、「羽根が生えた私」のアウトカムでした。
もしかしたら、私は、地上に降りるための羽根が欲しかったのかもしれません。
飛び立つためにも羽根はいる。
けれど、地上に降りるためにも羽根はいる。
これは、私のナショナル・アイデンティティに関わる物語の中で起きたことかもしれないなと思ったとき、ひとつの物語が幕を閉じ、新しい物語が幕を開けるのを感じたのでした。
羽根が生えた私が紡ぐものがたり。