脳みそぐるぐるプログラムとそこにある眼差し

残り一回になりましたので、書いてもいいかしら。

私個人の感想もろもろです。

私はアシスタントですけど、まあいっか。

私が参加中のシンボリック・モデリングの日本向けワークショップは、私のメタファーでいうならば「脳みそをぐるぐるさせる体験」が組みこまれています。


参加者の人たちが脳みそをぐるぐるさせているのを見ながら、
私は、これを英語で体験し続けてきた自分をほめてやりたい!と思いました(笑)
すごいわ、がんばったわ、私!と。


この、脳みそぐるぐるは、わざとです。

一気に知識を詰め込んで、答えは渡さず、間髪いれずに練習するプログラム。

そして、いかようにも考えられるような答えのない宿題。

以下は私の理解です。


宿題に、正解はありません。

ペニーとジェームズのモデルからの回答はもらえますが、
それは、模範回答ではありません。

自分たちはこう考える、と、生徒が比べて考えるのをサポートするための回答です。


自分たちと同じように考えられるようになりなさい、とは、彼らは、ひと言も言っていません。

そして違っていいのです。


構造を把握する方法は、脳みそにより違います。

そこには、自分自身の構造もあるから。

自分は、どのように構造を把握しているのだろう?と気づくためにある模範回答です。


それらは全て、考え、学ぶことを、サポートするためにあるものです。


そして、違った意見、異なる理解がたくさんあることそのものが、学習を促進します。

自分が人とは違う意見を言うことが、他の人の学習を手助けすることになります。

互いに学びあうことになります。


一般的な日本の学習スタイルではありませんが、そういうスタイル。

一緒である必要はありません。


なぜ?


シンボリック・モデリングは、「理解はみんな違う」ことを大前提としたクリーンランゲージを土台にした技法だからです。


そして、考える必要がある技法だからです。

クリーンとは、無になることではありません。
あなたはあなたのままでいい。
あなたが感じるままに、あなたが考えるままに考えていい。
自分の感覚でそのままいればいい。

ただし、クライアントと自分を切り分けて、自分の頭の中と、自分が口にする言葉を分ける必要があります。
そして、する質問に、「自分の考え」「自分の感覚」「自分の価値観」が混ざり込まないように、クライアントが使った言葉とクリーンな質問だけを使います。

考えたり、感じたりすることと、自分の表面や言葉を切り分ける必要があります。
考えるのは、むちゃくちゃ考えます。
推測しないとセッションできない。

私は「死に物狂いで頭を使いなさい」と言われたことがあります。


クライアントの持つ考え方や理解の数は、クライアントの数だけあります。


自分と違うモデルを知ったとき、そこをどう推測していくかを助けるのに、自分と違うものをたくさん知ることは、非常に助けになります。


みんな違って、みんないい。


そして、「わからないこと」、「知らないこと」、「できないこと」とご機嫌に、好奇心と一緒にいられることは、シンボリック・モデリングのファシリテーターが体感として覚える必要があることです。


だって、クライアントさんはそうなので。

知らないこと、わからないこと、できないことを、クライアントは探求します。



ファシリテーターが、正解を求め、わかることを求め、できることを求め、失敗しないことを求めたそのとき、そこに起きることは何でしょう?


口にせずとも、相互作用は存在します。



私は、今回はサポート側なので、先に内容をある程度知っているため、参加者の人たちが、ぐるぐる混乱しているのを見ています。



それは、視点と意識を拡張させるため。



シンボリック・モデリングで、ファシリテーターが使うのは、動的な視点です。

参照点も、動的です。


視点は動きます。
参照点も動きます。
この感覚は、最初は意識しないと無理です。



私個人のメタファーとしては、これは、「目を虫眼鏡にしたり、顕微鏡にしたり、望遠鏡にしたり、宇宙衛星にしたりする必要がある感じ」


今回のは多分、宇宙衛星パターン。

広く見る。



シンボルを作る時は虫眼鏡。

だから、虫眼鏡から一気に宇宙衛星に目線を変えて、そのあと、望遠鏡くらいにして、また虫眼鏡にして、でも、宇宙衛星から見た景色は覚えておいて、みたいな作業を学習している感じだと思います。



できないことがわかっていて、出される課題の数々。

頭はひっちゃかめっちゃか。

それらは、考えるための課題。



ここで、私は、ウェンディ・サリバンの言葉を紹介したいと思います。

唯一、日本語に翻訳されているクリーンランゲージの本の著者で、笑顔がめっちゃ素敵な人です。

この前、たまたま一緒のグループでワークしました。


後から知ったことには、それは、今回の日本向けワークショップのたたきを考えていたグループでもありました。


「私はね、もう長い間、ペニーとジェームズのワークに参加しているけれど、彼らが出す課題が複雑じゃなかったことは、一度もないわ」


そのとき、私とウェンディが取り組んだのは、この前の土曜日に、日本のワークショップで、参加者の人たちが、頭をぐるぐるさせた課題と、ほぼ同じ課題でした。


「何がどうだかよくわからない。答えがいくつもある」と、私はいい、ウェンディも「そうなのよ。これもあれも。こうもああも考えられる」と笑いました。


みんな違うとき、それは面白がっていい場面です。

話をまとめようとする必要はないのです。

まとまりようがない。

「私はこう。あなたはこう。へ〜っ!」の世界です。


その日のワークでは、そのあと、ジェームズの説明を聞いて、ウェンディはああ、となり、私の感想は、「一言だけ言わせてほしい。複雑!」でした。


その課題、ウェンディ・サリバンも、頭をぐるぐるさせていました。



もう一つ。

今度はアンジェラ・ダーバン。

この方は、クリーン・コーチングという技法を教えておられます。


あるオンライン・ワークショップでのこと。

それは時間を一本の線で考える話のディスカッションでした。

彼女は、時間を同心円として捉え、みなとの違いを語っていました。


ジェームズもペニーも、楽しそうに笑ってそれを聴いていました。



彼らは否定しません。


自分と同じように考えろとも言いません。


ただ、これを知っておくと、ファシリテーターのサポートになるだろうということを教えてくれているだけ。



そして、今回、オンラインという関係上、彼らがどんな表情で、生徒の議論を見ているかが見えてはいません。

けれど、私が知る限り、おそらくは、とても優しい表情で、生徒が頭をぐるぐるさせているのを見ているはず。


そこには、一切、間違いはありません。

彼らは間違いを正すために見てはいません。

困っていたら助けるために、そこにいます。


そして、すぐにはできないとわかっている課題を、彼らは出し続けます。


彼らのワークショップは、もう、わからないこと、できないその状態を、子供みたいに楽しんだもん勝ちです。



最後に、私の質問に答えてくれたジェームズのことば。


私。

「私はいつ、あなたのようにファシリテーションできるようになりますか?」


ジェームズは笑いながら言いました。

「君ね、僕が何年これをやってるか知ってる?」



今、私は気づいています。

私は、何十年経っても、彼のようにはできない。

だって、私は、彼じゃないから。


そして、それでいい。


彼らのコピーを作ろうとは、彼らはしていません。
それは、さまざまなトレーナーの先生たちの個性的なありようからわかります。
トレーナーの人たちもそれぞれが、それぞれのモデルを持っています。


みんな違って、みんないい。

クライアントがそうならば、ファシリテーターもそれでいい。


けれど、最初は、誰かのモデリングをする方が楽に学べる。



そういうことだと思います。


みんな違うことが、みんなを助ける、そういう世界。


生徒を信じていなければできないプログラムから、私は、彼らが受講者を信じていることを感じています。

でなきゃ、脳みそぐるぐるプログラムはやらないと思います。



そして、PROに関わる「枠組み(フレーム)」が山ほど突っ込んであるフレーム博覧会のような今回のワークショップですが、「シンボリック・モデリング」自体はフレームワークじゃない、という、なぞなぞを最後に、本日の日記を終わります。