ああ、の中身

昨日の続き。
いろんなことが腑に落ちたのだが。

その腑に落ちたものは、最初、言葉にすると、ああ、の二文字だけだった。
ああ、以外の言葉は浮かばなかったけど、わかった、と私は思った。
すごくたくさんのこと。


後から、いろんな言葉が登場したけれど、それらは、ああ、の全部を語りつくすには足りなかった。
ああ、と思った時に腑に落ちたものは、もっとたくさんの情報を持っていた。
言葉にはならない情報。


メタファーってこういうことね、と思った。
おそらく、ああ、は、メタファーにできる。

それは今なので、メタファーにする必要はないけれど、あえてメタファーにするなら、その、ああ、は、メタファーという言葉の由来であるギリシャの壺みたいなもの。

そのギリシャの壺は、元々、香辛料など当時価値のあったものを入れるための壺で、持ち運びができた。

ああ、は、私の中の感覚なので、私と一緒に動き、価値ある気づきをもたらした。

その気づきを、私は、概念で言語化してここに書こうと、実は昨日、一度試みたのだけど、情報量が多すぎて頭が整理できなかったのだ。

ああ、には、全部含まれるのに。

それで、私は、ほんまやわ、、、と思った。
ひとつのメタファーには、数えきれないほどの情報が含まれ、本人ですらそのメタファーが持つ全ての意味を理解することは無理だということ。

ああ、の全てを私は理解できない。
だから、頭が整理できなかったのだから。
でも、大丈夫なのだ。
私(この場合の私は、私全体を指す)は、ちゃんと理解してるはずだから。

そして、それでも、いくつか、言葉になったものがあり、それは、私の体は、私を守ろうとしてきたということだった。
それから、そこに、ある紐付けが存在しているということだった。

それは、体の痛みと心の痛みが同時に存在した時期に生まれた紐付けで、私が傷つかないように、互いに互いをセーブするというやり方が、私のシステムの中では行われているようだった。

紐付けは、いくつかあるようだったけれど、そのひとつは言葉になった。

それは、私が夢中になって何かをすると、体を壊し病む、私が何かを愛するとそれを失った時に病む。

そういう紐付け。


だから。
夢中になりすぎないように、心が夢中になる時は、体がセーブする。

ああ、わかった、と私は思った。
思い当たることがあったのだ。


そして、そのやり方は、最近まではうまく機能していたのだ。
だけど、ここにきて、そのやり方はまずいということになったのだろう。

私の頭が理解しないところで。


同時に、心は、本当に完全に癒えているのだと私は再確認した。
心に少しでも何かが残っていたならば、体は、今回のような動きはしなかっただろう。

例によって、私がピラティスやヨガに通い始めたその日の朝、私の手は、勝手に予約したのだ。
30分後に始まるレッスンを。

前もって検討していたわけではない。
その前の日に、肩がつり、やばい、とは思ったけれど。

そして、体だけに集中してみたら、起きたことがこれ。
体と心に存在する紐付けのいくつかがもう必要ないということ。
そして、それを外そうとし始めている自分。


まだ、出てくるけど、今はここまで。