身につける

秋がやってきた。
人生生きてみるものだというくらい、軽やかな気分の秋。
未来は明るいわ〜という気分。
秋にこんな晴れやかな気分だったことは、20年ちょっとぶりである。

そしてひたすら、体作りと体を使った実験に励んだ9月もまもなく終わり。

走っても歩いてもむくむ私のへなちょこな体は、ヨガとピラティス、ダンスではむくまないということがわかった。
同じ動く、同じ有酸素運動、なのに不思議なものだ。

日一日と体は軽くなり、3週間で肩こりと腰痛は消滅した。
そして、もっとやりたい、もっと動きたい、と体が要求してくる。
楽しいからやりたい。

心と同じく、体も快楽主義を採用しているようである。
楽しいことが好き。

私の体にとって楽しいことは、狭い範囲でちょこまか動き回ったり踊ったりじっとしたりすることのよう。

体の好みを把握しつつ。

スタジオに通う間に、ああ、私はこれまで学んだことを、体を使ってまとめようとしているなと思った。

頭が学んだことを、体を使って。
思考は行動や現実を変えるというそれ。
長い長い時間をかけて、学んできたもの。

自分のためだったのは、最初の数年だけで、あとは仕事で必要だったからやらざるを得なかっただけだけど。
自分で実験をする必要があった。

それらは、自分にうまく作用したもの、作用しなかったものがあったけれど、今、私の目の前に広がる景色は20年前とまるで違うから、思考が現実に作用する(行動を変えるから)というのは、採用していいと思う。

現実に作用しないものは、私は興味がない。
精神的満足だけで、人は幸せになれない。
最初は違う考えを持っていたけれど、一瞬は満たされるかもしれないが、また、何か出てきて、根本的な解決には至らないところを、何度も見てきた後で、私は、現実ありきだと考えを変えた。

癒しの過程は、心の中だけでいい。
ただ、それが終わったら、やり方を変える必要がある。
足を骨折した人が、骨折した足で生活する時に必要な心持ちと、足が治って何処へでもいける時に必要な心持ちは違う。
足が治っているのに、骨折した時と同じ歩き方をすれば、松葉杖がないから、体のバランスに不具合がでるだろう。
骨折した人に走れという人はいないが、そうでない人には、走れという人もいるだろう。

社会の中で、他者と交わり生きている限り、外的要素は必ず存在し、それは、心の中や思考と同じように人生に影響する。

私はただ、人が幸せになるのが好きだ。
思考方法は、そのための道具のひとつにすぎない。

思考方法そのものを追求するために、人生は存在しない、いや、してもいいけれど、あまりにも前時代的でもったいないと感じる。

普通の人が、幸せになりやすい、現実を満たしやすい時代は、過去にはなかったのだから。


で、面白いのは、あれやこれや、そんなことを、「身につけよう」としているのだと気がついたこと。

動くことで。

身につけよう、は、身!
ああ、体やん!
体が動かな定着しないんやわ!

当たり前のことで、大事な秘密を、開けっぴろげに公開していた表現に拍手しそうになった。

日本語は、そういう表現がたくさんある。


私が学んできたことと、ヨガ、ピラティス、ダンスは近いのだろう、きっと、
学んだことを、動きにすると、きっとこんな感じなのだ。

そして、自分がしてきたことは、スタジオのインストラクターがしていることと同じようなことだ、と思った。
私は、それを、言葉、でする。

私のセッションは、ピラティスよりだけど。
ピラティスのインストラクターさんは、しんどいねえ、でも笑え、という。
鍛えるためにしんどいことをしているから、笑ってないとやってられない。

同じだな、と思った。


ここまで書いて、私の現実は、本当に変わってると気がついた。

体を動かしてる。
体を使おうとしてる。
自然に。

誰がびっくりって、私が一番びっくりした、今。
楽しいらしい、動くのが。

まあ、びっくり。