ふと

選択は、いかに考えるかではなく、いかに動くかによって行われている。
その動きには、思考が影響することが多いので、人は思考について考え、それを変容させようとする。


だけれども、ここ2年くらいの自分に時折起きていることは、言語化された思考がない状態で選択が起き、体が勝手に行動していることだ。

ここにも何回か書いた。

これは、最初、なんとも奇妙な感覚を私にもたらしたけれど、言語化された思考が存在しない状態でした選択は、どれも正しかった。

その選択がされたということを、だいたいの場合、私は行動の途中で知る。
言語化され、概念や物質的な選択が必要となるタイミングで。

このやり方は、早い。
ためらいや恐れが、最初の段階で、そこに介入しないからだ。
感情も介入しない。
また、自分が納得する作業が必要ない。

行動を理解し納得する作業、つまり、なぜ、自分がそれをしたいのか?自分がなぜそれを選択しようとしているのか?は、意外と時間をとる。
人によっては、この作業にひどく時間を要して、タイミングを外すこともある。


私も割とそうだ。
しかし、現実的に、理解し納得していなければうまくいかないのかといえば、そうではない。

理解し納得して行動しなければいけない類のものには、理解と納得が必要だが、そうしなくても結果は出るものごとについては、思考で概念に言語化された理解は、必ずしも必要ない、ということが、ここ2年で体験からわかったことだ。


今年は地球が元気がいい。
世界中で自然災害が発生している。
地球が元気がいいと、人間は大変だ。

昨日、これまで見たことがない風を伴って台風が通りすぎていった。
今朝、町は、ガラスの破片が散らばっていた。

そこを歩きながら、いかに行動による選択を創造的にするか、とか、生き抜くたくましさ、とか、楽観性、とか、立ち上がる力、とか、そういうものが、今後は世の中のテーマになってくるような気がした。



いかに動いたかで人生は変わる。
いかに考えたかでは変わらない。
それは、感じ方が変わるだけだ。
個人のうちに思考はあり、それは行動しない限り、うちに留まる。