後悔から始まる朝。

おお・・・私はなんとしょうもないことに時間を費やしてしまったのだ、と今朝、突然、少し後悔。

私にとってしょうもないこと。
それは、誰かのドラマに巻き込まれること。
誰かがドラマを作っていくのに、サポートとして参加したり、一緒にドラマの企画を練ったり作り上げていったり、共に楽しんだり、そう言うのは面白いし好きだけれど、誰かのドラマに「巻き込まれる」のはもはやしょうもないし、そこには面白みを感じない。
他人の人生に参加する時に、配役を相手に勝手に割り振られるのは、自由がきかなくてめんどくさい。
しかも、巻き込まれているから、自分がそのドラマから退出しようと思っても相手が追いかけてくることがある。
誰かのドラマに巻き込まれている時、相手が配役を決めていて、ほとんどの場合、それは自分じゃなくて他の誰かでもできる役割なのだが、その役割をもつ人を登場させる必要がある場合、他の誰かが見つかっていなければ相手は自分と関わってこようとする。
めんどくさいったらめんどくさい。
相手の人生は尊重したいが、それより尊重しなくてはいけないのは自分の人生で、代わりがきくよねその配役と感じ、そして、自分がその役を演じることに面白みを感じない場合は、すかさず降りる方法を考えねばならない。

なにしろ、私はめんどくさがりやなのだ。

ドラマについては、自分が作り上げるドラマや物語に、話の主軸が置かれていることが多いが、世に生きているのは自分だけではない。
人は、自分のドラマのために存在するわけではない。
自分の物語、ドラマを作り上げていく時に、そこに最初から誰かの犠牲を組み込んでしか叶わないドラマは私は魅力を感じない。
主役が一人しかいないドラマにも魅力を感じない。
たくさんの主役が場面場面にいる、そういう物語やドラマに魅力を感じる。

私は、自分がドラマを作ることで、他人にもいいことが起きる、そういうドラマや物語を作りたい。
人と協力しあって。
いくつものドラマとドラマが絡みあって。
時に、スピンオフのコメディやロマンチックな出来事や、思いがけないミラクルやそういうものも生まれて。
その物語は、なんの役にも立たないかもしれないし、たまには人の役に立つこともあるかもしれないし。

役立つ様に最初から意図された物語は、子供にたくさん用意されていて、それらはたくさん読んだので、もはや子供向けに感じてしまい、40すぎた私はもっと人生楽しむタイプのドラマやものがたりを追求したくなっている。


で、おお・・・なんとしょうもないことに時間を費やしてしまったのだ、そりゃ私の問題ちゃうがなと、今朝、ストンと後悔したのだった。目の前に、と言うかパソコンの中に、やらなきゃいけないことをたくさん溜め込んだ後に。

随分と時間を無駄にしてしまったと思うのと同時に、学びのない時間というものもまたあるものだ、ということを理解した。
なんの中にでも学びがあると思っている、この、私の固定概念を少し崩す必要があるかもしれないという気づきと一緒に。

そういう意味では、無駄ではなかったけれど、物理的に、私の時間を随分無駄にしてしまった。
その時間、もっと他のことが考えられたのに。
なんてもったいない・・・。

そして、ああ、本当に自分はあほやわと笑ってしまったのだった。
どうでもいいことだとなぜわからなかったのだろう?

ま、人間だもの。そういうこともあるわいな。
わからない時にはわからないものだ。
ここは自分を甘やかしておくことにしよう。

そして、後悔しても時間は前には戻らないので、もう忘れよう。
結局、後悔してもこれまた時間の無駄よ、その間に別のことが考えられるでしょ、というオチと自分へのツッコミでおわり。

無駄にした時間が存在した過去は忘れる努力。

以上。

そして、たまったことと一緒に今日が始まる。