軽い体

少し近づいた、と気がついた。
少し近づいていた。

私の筋肉は硬くてこりやすい。
毎朝、マッサージを受けるところからスタートしたいと以前から思ってきた。
15年は。
そうすれば、体が軽くてきっと楽。


ずっと、マッサージに目が向いていたけれど、私の望みは軽い体の方だと、今日、ピラティスからの帰りに気がついた。

体が軽いという感覚と一緒に。

望みが叶った瞬間に、望みはこちらだと知る。
毎度のパターンだ。

この望みは、問題発生から叶う方向へと動いていた。
肩がつったのだ。
どうも、私の体は、私の望みを叶えるための手段として問題を使っているような気がしている。

頭が問題だと認識できる反応を起こして、私を動かす。

私はめんどくさがりだけれど、不快、不愉快、不都合を嫌うから、問題に対してはものすごく素早く動くからだ。
私は、問題を放置することを好まない。
だいたいの場合、放置すると問題は大きくなるからだ。


大きな問題は解決に手間取るか、または、大きくなりすぎれば、解決できなくなることもある。
どのように解決していくかということもあるけれど、物質界の問題解決には、タイミングもまた重要だ。

もっと早く手をつけていれば、ということは実際にある。

問題を眺めることを、感情を動かさずにできるかどうかは、このタイミングを左右する。

感情自体が問題の場合もあるけれど。

なにも、自分ひとりでする必要はないけれど、問題を問題と認識するのは自分だから、問題があるときに問題があると認識できることもまた重要だ。

問題の裏には必ず望みが隠れている。

人によっては、望みを叶えるために動くより、問題を解決するために動く方が動きやすい人がいる。
私のようなめんどくさがりは特に。

軽い体という望みは常に存在したけれど、それを手に入れるために、私が本気で動いたのは、肩がつったから。

肩がつるまで、家からほんの数分にある自分にあったゆるいのりのスタジオに、私は近づいていない。
その存在は知っていたのに。

ごまかすためにマッサージはうけてきた。
でも、毎日は無理だったし、軽い体はそれでは手には入らなかった。
それ以上重くならないようにキープしていただけだ。

問題を根本的に解決しようとした時、望みは近づいてくることが多い気がする。
私の場合。

また同時に、その問題が解決されなければ叶わない望みは、望みとはっきり認識しないようにも思われる。
叶わない望みは、不満を生み、私の好まない不快、不愉快、不都合を感じさせるからだろう。

私が持つのは、快楽主義な体と心だと思われる。