DAY96: その質問は、「どこ」へ「go」するのでしょう?|クリーンランゲージ

「go」という単語。


行く

 (ある場所・人(の所)・方向へ)行く

向かう

(活動などに従事するために)行く、通う

(ある目的で)行く

運行している

移動する

進む

(…で)行く

 

辞書から引っ張ってきましたが、日本語だとそういう感じの言葉です。

 

 

この一語、クリーンな質問の話では非常に登場頻度の高い言葉です。
シンボリック・モデリングの説明に限定すると、もう、どうでしょう、話の内容によっては、文章だと毎行に近い感じで登場することもあります。

今、シンボリック・モデリングのオンラインでのイントロダクションコースをもう一度見直していますが、そこでも、大袈裟でなく、数秒に1回くらいは、この言葉が登場します。


数年前、私は最初、これをどう訳すか悩みました。

感覚がわからなかったのです。

自分が持っていた言葉での知識と、「go」が結びつきませんでした。


やがて、「ああ」と感覚で理解しました。
その後、ファシリテーションがむちゃくちゃやりやすくなりました。




というわけで。本日は、「go」の話です。



この一語を理解するだけで、クリーンな質問が「普通の質問とは少し違う」ことがわかります。

普通の質問法とは、クリーンな質問は使用法が少し違うのです。


同時に、初心者さんは、最初に覚える必要がある感覚も、この「go」という一語が説明してくれています。


 

クリーンランゲージでは、質問は、「go」するのです。

 

「deliver(配達する)」という言葉が使われることもあります。
ファシリテーターは、質問を「お届け」する。


 

どこに?

 

質問が向かうべき場所や空間に。
質問を届けるべき場所や空間に。


 

それはどこにあるの?


 

それを知るために、ファシリテーターは問いかけます。

「そのXは、どこにありますか?」


 

そして、一番最初、まだ何もわからないときは、クライアント「全体」に向かって問いかけます。

 

「そして、あなたは 何が 起きてくれたら 好いのでしょう?」

 

質問が向かう「場所」や「全体」、そこで待っているものは、声なきメタファーたち、メタファー・ランドスケープです。

 

 

私はたまに、まるで、質問そのものが生き物のようだと感じることがあります。
質問に命を吹き込んで、そうして、送り出す。

行った先で、質問がいい働き(work well)をするように。

 

私は、実際に、質問がどういう働きをするか、どんなことが起きるのかは知りません。

 

それは、「見てみないとわからない」

 

ただ、その場所に、その空間に、質問を送り出し、そして質問は、その場所に、その空間に向かう。

 

そのために、クリーンランゲージでは、基本的には、クライアントとファシリテーターは、ほとんど目を合わせません。

クライアントの意識が、その場所に、その空間に、い続けられるように。

 

ファシリテーターも、その場所に、その空間に、注意を向け続けます。
声で、体で、目線で。

注意を向けるのは、言葉だけではありません。
ファシリテーターが注意を向けているのは、場所、空間。

ファシリテーターは、言葉では介入しませんが、質問たちだけは、クライアントの空間に向かい、お届けされ、そして、そこで仕事をします。
唯一、クライアントの空間に入っていけるもの、それは、ファシリテーターが発するクリーンな質問です。質問は小包(a parcel)のメタファーで表現されることもあります。

 

そして、クライアントの空間に入って、すうっと、質問は姿を消す。

(デイビッド・グローブは、「消える質問」「消えるファシリテーター」が一番いい質問で、いいファシリテーターだと言っていたそうです。)

 

クリーンランゲージの質問そのもののことばかり書いていて、これを書くのを忘れていた、と、今朝思い出したので書いてみました。

クライアントのサイコアクティブな状態(精神的に活性化された状態)を維持するのに、これは割と大きなパートです。

 

クリーンな質問は、向かう、行く、届けられる。

まるで、小包のように。

それを解くのはクライアント。
そうして、その小包の中身がどんな仕事をするかは、見てみるまでわからない。

 

日本語で言うなら、クリーンな質問は、玉手箱の中の煙のようなものかもしれないなと思ったりもします。

浦島太郎は知らなかった。

箱を開けたら何が起きるか、煙が何を起こすかを。


クリーンな質問は、それを問いかけてみるまで、問いかけられるまで、何が起きるかわからない。

誰も、何が起きるかを知らない。

質問のあとに、何が起きるかを観てみるまでは。


(だから、ファシリテーターは必死で練習します。どんな球が飛んできても、受け止められるキャッチーになるために。クライアントが出すサインを見極められるようになるために。ファシリテーターは、ピッチャーではありません。)



クリーンな質問は、違う使い方もできますが、そもそもは、人と人との対話をファシリテーションするためには作られなかったということを忘れないようにするだけで、少し違いは生まれるかもしれません。


人(ファシリテーター)が「人(クライアント)とメタファー」の対話をサポートする「三者対話(トライアログ)」のために作られた質問です。


その「人(クライアント)」がメタファーに注意を向け続けるために、メタファー・ランドスケープの中を「生きる」ために、その空間や場所へと、質問は向かいます。


セッションでクリーンな質問を使うときは、「人と人が対話しているのではない」ということを忘れないようにすることは、一つ、大きなポイントかもしれません。


そこには、ファシリテーターの目には見えないけれど、クライアントには見えている世界が確実に広がっています。

実際、クライアントは、何かに目線を合わせて、「〜が見えている」という発言をしょっちゅうします。


クライアントが見ているもの、それは、ファシリテーターの目には見えていません。
だから、「どこ?」を聞いておかないと、質問をどこに向かわせればいいかがわかりません。


(面白いのは、クライアントも「どこ?」と問いかけられてはじめて、それを発見することがあることです。見ようとしてみてはじめて、見えるものもあるということなんでしょう。)


こちら側は、自分の目には見えていないものがそこに「ある」と信じる必要があるわけで、相手には本当に見えていること、「自分の目には見えないもの」が存在すると信じられるかどうかも、また、一つポイントかもしれません。

クライアントには見えています。
その何かが見えない時は、クライアントはキョロキョロして、見つけようと姿を探していたりもします。


・・・ということを、自分ではっきり知るためにも、セッション練習は必要ではないかと思います。


「どこ」に質問を「go」すればいいのかを、体で理解するために。