アウトカム志向は、学習できる

来年について、頭がむくむく動きだしました。

お正月休みが終わったら、私は、2か月前とほぼ同じように、いえむしろ、今までよりも自由に仕事ができます。


この1か月で、父が、家族全員のこれからの準備を整えてくれたからです。

例により、体を張って。

彼は、家族を守るためなら体を張ります。

そうやって、女性ばかりの私たち家族を守り続けてくれました。

そして今も。


父のことを通じて、私は、自分がそもそもアウトカム志向な理由に気づきました。

そして、私の妹もそうであることに気づきました。

私と妹の性格は全く異なります。


これが、何を意味するか。


そこに私が気づいた時、私のお腹の真ん中から、ぐわっと何か力が溢れてきました。


そして、私の頭の中が動き始めました。


「アウトカム志向は、学習で、身につけることができる」ということが、私に理解できたからです。


私と妹は、幼い頃から、そばにアウトカム志向の人がいました。

私たち2人は、アウトカムがある人の人生に起きることを見続けて育ったことに気づきました。


しかも、この人は、人生を楽しみ、仕事は好きなことをやって、世界初のことを成し遂げた現場にいました。

60年間、好きな仕事をやり続け、好きなように遊び、大人になった後、お金の心配はしたことがない人でした。


(ただし、彼のお金の使いようが尋常ではありませんでした。収入だけであれば人口の1%の枠の中に私はいたけれど、私は、お金持ちの子供になれたのに、なり損ねた人です。彼は退職後も1ヶ月30万円使い続けていました。収入と生活レベルは別の話です。そして、私が父からもらうお金としての遺産はゼロです。)


彼はいつでも、遊びに出かけるみたいに会社に出かけていきました。


彼は、幸せとは言えない育ち方をしています。

7歳になるまでは、諸事情でしょっちゅう親戚の家に預けられています。

また経済的な理由で、大学には進学できませんでした。


東大卒が溢れる会社に高卒で入り、入社したときには、会社に彼の机はなかったそうです。

彼の同期入社は1万人。

彼の会社は中卒は採用しなかったので、60年前、彼の社会人人生は、会社の最底辺からのスタートでした。


しかし、彼が最初の定年を迎えたとき、彼は、同期の中でただひとり会社本体に残った人になりました。

そして、死ぬまで、会社にいていいと言われていました。

理由を最近まで、家族は把握していませんでした。


彼の自慢は、自分の部下、会社員人生で合計して1万5千人が、誰1人、心を病まなかったことでした。

仕事内容について語らなかった彼が、胸を張っていたのはこれでした。


もう一つ、彼が冗談で言っていたのは、「お父さんは、会社で一番になった。最年長の社員や」でした。

日本政府が目指す元気で長く働くを、彼は楽しそうに成し遂げました。


認知症の症状がではじめた頃、彼は、退職しました。



そして、認知症と診断された後も、毎日、楽しそうに自転車で出掛けて遊んで帰ってきていました。

なぜかはわかりませんが、彼は、認知症だけれど、11月に事故をするまでは、小説が読め、囲碁が打てました。

切符はもう買い方がわからず、日常生活にもさまざまなことに支障がでていました。

けれど、普通、認知症の人が真っ先にできなくなることが、彼は今でもできます。


彼が認知症だと、初対面の人はほとんど気づきませんでした。

事故の時の救急隊の人も、私と話すまで、父が認知症だと気づいていませんでした。

父がはっきりと言った住所は、彼の実家の住所でしたが、態度が認知症の人のようではなかったからです。


父の認知症は、珍しいタイプだと、いろんな人がいいます。


何より、彼は、生きる意欲を失いません。




彼は、この週末、グループホームに引越します。


ケアマネさんのおかげで、奇跡のタイミングで入所できることになったそのグループホームは、彼が人生を捧げた会社が母体のグループホームです。

このご時世にあって、面会は夜間以外、完全に自由です。

施設の方針は、今日を楽しく、です。

私の実家から自転車で数分です。


入居待ちの人がいたのに、なぜか、その人たちが断りました。

わずか数時間だけ存在した空室1に、彼は滑り込みました。


彼にとって、家族にとって、これ以上の場所はないだろう場所に、彼は行けることになりました。


今、病院にいる彼は昨日55歳でした。

それで、私は、「お父さん。お父さんは今、体が不自由でしょう?お父さんの会社がね、ゆっくり暮らせるリハビリ施設を用意してくれたの。よかったね」と言いました。

患者に興味がないクソ医者のせいで、抗精神薬づけで廃人化の道を順調に歩んでいた父の目に光が戻り、「なんちゅうラッキー」と言いました。


そして、なんと、父は、身だしなみを整えようとし始めました。



逆を言えば、クソ医者がいなければ、ここまで必死に、このタイミングで、私やケアマネさんが、彼や家族のこの先を考えることはありませんでした。


つまりクソ医者は、彼の人生においては、完全な問題としては機能しませんでした。

これは、メタファー・ランドスケープで、望むアウトカムを追求するときに、よく起きる事象です。



彼は今週末に引越しますが、その日、グループホームの人たちは、会社名の入ったはっぴを着て、彼を迎えてくれるそうです。

「楽しみに待ってますね」と、施設長さんは、本当に楽しみにしてくれているとわかる笑顔で言いました。


父は、やっかいものとしてではなく、彼を待ってくれる場所へと行くことになりました。

慣れるまでは、毎朝、母がそこにいて、朝ご飯を一緒に食べられる場所に。

彼の帰りを待つ彼の犬が、散歩で、彼に会いに行ける場所に。


また、これが可能になったのは、彼が、企業年金を使い果たし、普通の厚生年金しかなかったからでした。

介護は年金や収入額により負担額が変わります。

彼がまともな人だったら、そのグループホームの費用を我が家では賄えませんでした。


彼がお金を使いまくったことで、今回、彼は、引っ越せることになりました。

お金がなかったことが、問題としては働きませんでした。



私や家族は、全て、父が、自分で決めているような気がしています。

誰もが笑顔でいられるように。

妻と娘を守れるように。

かっこいい面白いお父さんのままでいられるように。


これは、私が、一番最初にケアマネさんに話したことでもあります。

まだ父に介護サービスは必要ありませんでしたが、半年前から見守りをお願いしていました。

父ではなく、母を見守るために。


最初の打ち合わせの日、私は言いました。

「父のプライドは、私たちを守り続けたことです。彼は非常にプライドが高い人です。かっこいい父のままで、いさせてあげたい。父がかっこよくいられること、それが介護のプライオリティのトップです。」



私自身には、アウトカムの設定がすでにありました。

これは2年前、祖母に関わることが決まった時に設定してありました。

「みんながまあるく笑顔でいられること。」




ともかくアウトカム志向。

これは生まれつきではないこと。

そして、それは人生の最後まで影響すること。


思考回路は、認知症になろうと残ること。



私の中にやる気がむくむく湧きました。


ものすごい成功モデルが目の前におり、それは、私が春からやろうとしていることと同じだからです。


クライアントに、クライアントが望むように、クライアントが自由にやりたいように、ファシリテーターがアウトカム志向でそれをファシリテーションするときに、おそらく起きること。


さあ、やろう。


お父さんというトレーナーから、私が受けたトレーニング、ペニー、ジェームス、マリアンが教えてくれたこと。


シンボリック・モデリング。




そして、去年亡くなった友人の笑顔が浮かびました。私に強さを教えてくれた人です。


「石井さん、もうあなたの番よ。強くなりなさい。勇気を出しなさい。あなたならできる。あなたを待ってる人がたくさんいるわよ。私にはわかる。」



それから、父の一言が浮かびました。

この一言は、私だけの秘密、私だけの宝物です。

父から私への遺産です。