6年かけて、最初の方のメールに答えを書いてくれていたと気づいた話
今朝、短い文章を翻訳していて、私は、「ありゃ、最初から答えを教えてくれてたじゃない!」と驚いた。
どうすればいいか、教えてくれていたじゃない…と思った。
そして、再び、自分の脳みその不思議について考えた。
私が翻訳するときは、誰かにシェアするためです。
もちろん、自分の理解も深まるので、自分にもいいことがあります。
win-win。
そして、これが不思議なのだけれども、「誰かにシェアする」と言う前提がある時だけ、私の脳みそは少し賢くなるような気がします。
普段の思考と、私の思考が変わるような。だいぶん賢くなる気がします。
このことには、最近、ある練習ワークを通して気づきました。
(このワークについては、また、別の場所に書きます。)
おそらくは、私の脳みそは、私は理解できないと知っていて、ただ、情報の橋渡し的に私を使っているのだろうと思われます。
情報を渡せばね、誰かがね、私が理解できるように解説してくれるからね!
自分の脳みそが考えることを自分が理解できないとは、よくわからない世界ですが、そんな感じなのです。
私は、自分が書いたものとか、翻訳したものとか、しゃべったことを聞いて「へえ!」と思っていることが多いのです。
不思議なんだけど、なんか、そんな感じ。
そして、だから、「マダムYの帽子」ってタイトルに、ブログのタイトルを変更したんだったと言うことを、今、思い出しました。
IQが足りないから、「マダムYの帽子」にしたんでした、そういえば。
ともあれ。
「答えを教えてくれていたじゃない」は、「主語(と目的語)を使わない日本人のクライアント」とどうやってワークすればいいのか、という話。
2017年に、ジェームズとやりとりしていたメールの中に、似たようなシチュエーションで、僕はこうやってるけどね、というような感じのことを彼は書いてくれていました。
6年も前よ!どう?私のこの理解の遅さよ!
そのメールを私が翻訳しようと思ったのは、そのメールが、ふと頭に浮かんだからです。
そして、来月から始まる勉強会の内容の資料として役に立ちそうだなと、翻訳することにしたのでした。
そして、翻訳しながら、「あ!」となったとそういうわけです。
ああ、これで、主語問題、目的語問題は解決だと私は思いました。
追加する質問、その運用、それが私の頭の中でスッキリまとまったのを感じました。
それから、ついでにシンボリック・モデリングが、どうして「望み」を強調するか、ジェームズ自身のその理由もそこには書いてありました。
ちなみに、私が「望み」を強調する理由は、彼とは少し違います。
それぞれ、自分の人生の中の経験から、「望み」なんてメタファーでしかない抽象概念の意味は形作られるから、そりゃ当然でございます。
一緒だったら不気味です。
それを押し付けないように、PROは「言葉から判断しろ」というルールになっています。
ある程度は推測が必要だけれども。
推測の判断基準も、割としっかりしています。
これは、ケイトリン・ウォーカーが図式にしてくれています。
私が「望み」を強調する個人的理由は、それが必ず未来にあるものだからです。
未来がある、それは、希望だと思うからです。
私の考えでは。
希望があれば、人は生きていける、どんな場所でも、どんな時代でも。
それが、私の考え。
それが叶うかどうかは二の次で、望みを抱くことそのものが、希望なのだと私は信じています。
ちなみに、これを先日、私が、「なぜ、私が、シンボリック・モデリング好きなのかと言えば、それは<望むアウトカム>の存在があるからで、なぜならば、それは、・・・!」と、うわあああと力説したら、ペニーとジェームズは、私の勢いにやや引いていた(ように見えた(笑))
問題は解決しなくても、傷ついたままでも、ぶっちゃけ、人は生きていけるんですよね。
でも、希望が無くなった時、人は死を選ぶことがあります。
私はそこを重要視しているのです。これは、自身の体験から。
(だから、人に押し付けるものではありません。ただ、私がシンボリック・モデリングを好きな理由は、それ。望み、を扱うから。)
うわあああと力説する時の私の英語はひっちゃかめっちゃかなことが多いので、彼らがどこまで理解してくれたかは謎です。
いいの、私がわかっていれば。
というわけで、なんだか、頭がまとまり始め、そして、私は、「さて、ぼちぼち、先延ばしにしていたメールを書こうか」という気分になってきました。
この話(日本人が主語や目的語を省略して話すことへの対応)はひとまず終了できる、別の話を始められる、と、私が気づいたからです。
次の話。
最後の話じゃない、次の話。
次があるって、希望なんですよね、私にとっては。
明日があるとは少し違う。
たまに、明日が来なけりゃいい!という日もあるから。人生には(笑)
でも、次、は違う。
というところで、今日はおしまい。