おっちゃんUさん、流行の失言をする

 

男女差別。

ジェンダーで人を区別すること。


先週、おっちゃんUさんが、教会にとって必要なあることをしないので、困ったみなで、おっちゃんUさんがそうするようにお願いしたり、説得したり、なだめたりなんだかんだした。


話は大事ではないが、どんな小さな事もそうであるように、本人にとっては大事である。

自分を変えるのはいつでも、本人にとっては大事だ。


例えそれが本人の望みを叶えるためであっても、人は行動するのに抵抗したりする。

それは普通のことだ。


望みを叶えたい、だけれども、自分は一切変わりたくないという望みは、割と普通に存在する。

よくあるパターンだ。


自分が変わらなくて叶う望みであれば、それはもう今、ここになくてはおかしいけれど、そこにはなかなか気づきにくい。

私は、知識としては知っているが、それでも、たまに自分の中の見事な筋書きに引っかかることがあり。


知るとやるとは大違いなのである。



というわけで、わかってはいるが全くやらないおっちゃんUさんの背中をみなで押した。

話は、おっちゃんUさんの自立に繋がっている話だ。



そして1週間。


昨日、教会の礼拝で、おっちゃんUさんはスマホから礼拝につながっていた。


そう。

スマホ。


これを買うのが、おっちゃんUさんに必要な行動だった。

おっちゃんUさんのやりたいことには、どうしても、それが必要だったのだ。


新しい道具を(自分の)世界に受け入れること。


願いを叶えるのに必要な変化は、必ずしも、意識や思考の変化とは限らない。

必要なのは、受容の場合もある。


おおげさに書くならば、自分ひとりでは願いはかなわないということへの受容であり、変化の受容であり、今は過去ではないことの受容であり、願いが叶うことを受容することだったりもする。


そしてそれが世界に現れる時は、スマホ一台だったりもするのだが。


今まで自分の世界に存在しなかったものが現れているので、この場合、起きたのは非常に大きな変化だ。



それはさておき、礼拝の後、おっちゃんUさんは言った。


「みんないろいろ言ってくれたけど、僕がスマホを買いに行く気になったのは、女性陣ではなく、Sさん(男性)の言葉のおかげだ」と言った。


私はおっちゃんUさんに、何の悪気もなかったことを知っている。

彼はジーザスの話を聞かず、傷ついた過去をにぎりしめてはいるが、いい人だ。


ただ、なぜ、そこに、女性が登場したのか、なぜ、Sさんと他の人の言葉を、男女で分けたのか、そこに、彼の世界観を感じたような気持ちになった。


彼は、相手のジェンダーで、人の言葉から受ける影響が変わるのかなと推測した。


そして、私は決めた。

Sさんが男性だからという理由で、Sさんの言葉を信用し、女性の言葉は、効果がないのであれば、私はもう彼のことは一切手伝わない。


現実は違う。

彼は女性の言葉でも動く。


しかしながら、私は、ジェンダー差別にはyesとは言えない。

気づかなかったふりはできない。


もう一つ、腹は立ててないが、手は貸さない。

失礼な発言ではあるが、気づいてないし悪意はないし、公でもない。


ただし、こちらの言葉に効果がないなら、私の時間の無駄である。

以後、おっちゃんUさんとは、他愛無いおしゃべりだけにしようと、私は決めた。


そこを変えて欲しいとは、私は思わなかったからだ。

なぜか。

めんどくさいからと、それは、ご本人の世界観で、私が介入すべきではないと思ったからだ。


自由なのだ。

男尊女卑もまた。


社会としては変わってもらわないと困るが、各個人の世界観は自由だ。



私は女性だ。

聖書の中の男尊女卑のくだりには、読まなくていい箇所ということで、赤線を引いている。

ジーザスは差別してないが、他について書かれたものは時代もあるがひどい。

そこを未だに訂正せず注釈もいれない聖書というか教会には、たまに、やや首を傾げる。

が、まあ、個人としては読まなきゃいいだけ。

個人の解釈でいける範囲の話だ。


聖書解釈の時間に、そういう部分が登場した時は、私は別のことをして時間を潰している。


役割を男女で分けるのは、いまや時代遅れなので、それを刷り込む時間は、私にとっては無駄だ。



過去、自分には受け入れ難い価値観と共に、いかに個人として平和的に、自分がやりたいようにやっていくか、男性よりも考えなくてはいけなかった中で、私は、知恵をつけた。


私の知恵は、戦わないだ。


まあしかし、今回のは失言やわなあと、私は少し笑った。

その場のほとんどは、女性だったから。

教えてあげないけど。


やっぱり少し、むかついたのかも。笑

時間を返せ、と。笑


幸いだったのは、Tさん(女性)がそこにいなかったことで、私は、神の采配に感謝した。