僕はもう今世は諦めた。来世の僕に期待するわ。

 

京都にいた頃、付き合っていた彼氏の口癖は「僕はもう今世は諦めた。来世の僕に期待するわ」だった。


彼は好きなように生きていて、夢もあるように見え、そのために着実に努力している人だったが、本人的にはそうでもないらしく、いつもどこか少し世を捨てている雰囲気を漂わせていた。


数年後、再会した夫もまた最初はそうだったから、私の好みがそうなのかもしれない。

陰のあるように見える楽天的な人に惹かれるのかもしれない。

夫は今はもう違う。

ただの楽天的な人だ。


さておき、来世に期待するは、生まれ変わりがあると仮定するならばの話だ。


あるかないか、それは知らない。


けれど、もしも、自分が人間として、地球に生まれてくるのが、これで最後だとしたら?


話は全く変わるのである。


次に生まれてくる時は、火星かもしれないよ?


私はクリスチャンなので、たしか死後も、神さまがいいよといえば、いつか体を持って復活できるらしいのであるが、場所は地球とは限るまい。

アンドロイドに生まれちゃうかもしれない。


場所と肉体が違えば、そして時代が違えば、今やりたいことは、来世には不可能なのである。



くだんの彼氏は、「過去世の行いが悪かったのだろう」ともよく言った。

じゃあ過去に目を向けてみたとして。


知るかよ、それは、他人の人生だと、私は思う。

魂が同じでも、脳みそと肉体が違えば、そりゃ他人だ。



何を持って自分とするかは、様々な解釈や理解があるが、私は、自分の人生については、一度限りだと思う。


過去世のわたしにも、来世のわたしにも邪魔されたくはない。


今世のわたしは、私のものだ。

その人生の責任は、全て、自分自身が負う。


どこぞを生きたわたしにも、どこぞで生きるわたしにも、責任はない。

今、この瞬間考え、感じ、行うことが、私の人生の全てだと思う。



魂が来世を約束すること、または、永遠の命を約束されていることは、苦しい状況に置かれている人にとっては素晴らしい約束である。

誰にも奪えない希望だし、救いでもある。

しかし、もしも、それがあることで今の価値が下がるならば、今しかないと思って生きてみると変わることもあるかもしれないと、時々、思う。


来世があっても、新しい肉体を手にしても、そこは、今の自分が願いを叶えたいと願う時代と場所ではない。


地球じゃないかもしれないよ。