喜びを描く新しいキャンパス
質問ができた最初から日本語で作られた質問を探ってみよう、ありとあらゆる日本語の質問を集めてみよう。
ギリシャ哲学ベースに西洋の教育が打ちたてられてきたように、私たちにもまた、それを元に打ちたてられてきたものがある。
東洋哲学、東洋思想だ。
東洋思想は世界に通用すること、東洋思想を元に発想しても、その民族は発展できることは、21世紀が証明しはじめている。
東洋思想が西洋思想より優れているのは、平和的で争いが少ない点だ。
そして、日本では、このふたつが非常に都合よく混ざり合いはじめている。
戦前の人と同じ話し方をする人はもはやいないが、日本語は、再び変化しはじめているように感じる。
明らかに。
東洋思想の中にも、優れたクリーンな質問があるはずだ。
それを探せ。
今朝起きた瞬間、私は、そう決めた。
日本語のために、日本語で作られた質問は山のようにある。
その中からクリーンな質問を選びだし、まぜて加えて組み立ててみればいい、と、思った。
英語のクリーンな質問と、同じことを意図し、同じ機能、作用をする質問。
どういう条件で質問を選べばいいのか、求める作用はなんなのか、それは学んできた。
作用、機能、意図、と、彼らは繰り返した。
日本語ならば、私には、なんの語学のハンデもない。
私の国語の成績は、小学一年生から高校三年生まで、全て最高評価で、100点もしょっちゅうだった。
もっとも100点を取るのが簡単な科目が、国語だった。
つまり、私は、日本語は得意なのだ。
日本語のコミュニケーションも。
なぜ、気がつかなかったのだろう?と、私は不思議な気分になった。
私が欲しいのは、日本語で書かれた知恵なのに。
今まで思いつかなかった。
私の頭は、すっかり英語を日本語にすることだけに、縛られていたからだ。
私は、日本語が欲しいだけなのに。
なぜ、翻訳のみに縛られて、日本語を探さなかったのか、私は、自分に首を傾げた。
クリーンランゲージの質問は、英語の既存の質問を、精査に精査を重ね、作られた。
独自の質問は、少ない。
同じことを、日本語でやってみればよかったのにと、私は思った。
英語を、意図を全く変えずに日本語にするなんて、土台無理なことに、なぜ執着したのだろう自分は、しかも、私はバイリンガルじゃないのに、と不思議な気分になった。
扱っているのはメタファーの技法だ。
日本語と英語の両方を使って、体感して育ったバイリンガルレベルの感覚が、自分にないなら、そりゃ難しい。
質問を訳すのは、ものがたりを訳すのとは、話が違う。
すでに出来上がっているものがたりなら、筋が変わらなければ、雰囲気が伝われば、全体でいい。
翻訳者の好みやセンスが入ることにより、ものがたりは、新たな豊かさを生んだりもする。
訳は細かなところより、雰囲気が変わらないことが重要だろう。
共感を生み出せることも重要だ。
しかし、私が必要としてるのは、ものがたりの細部を生み出すための、細かな質問だ。
全体を生み出すための質問だ。
元の言葉を発したその人の世界観に、こちらの意図が介入せず、できるだけ自由な発想を刺激する質問だ。
質問者が、回答者に共感できる必要は一切ない。
回答者が、自分の世界を理解して、味わい、体感でき、発展させられることを、ただ促進できればいい。
技法の手順は、英語と日本語のどちらでやっても、おそらく変わらない。
人の象徴的内的世界は、言語に左右はされていない感じがする。
だから、内的世界を動かす手順自体はそのままでいいはずだ。
そもそも、体は、言葉を話さないのだから。
ただ、耳から入る言葉は、思考に影響する。
思考は、思想に影響される。
言語構造は思想を持ち、それは、文法にも現れる。
文法の違いで、その質問の意図が日本語におとしこめない質問が、いくつかある。
英語なら、質問を構成する単語に意図が入っている。
日本語にしてしまうと、その単語は消える。
もし日本語に、意図を落とし込もうとするなら、それはクリーンでない訳にするしかないようなことになる。
その質問をそのまま使ってやるならば。
英語と日本語で、効果に差があるならば、それは、質問の差だと、私はまた思った。
今でも、まあまあ作用はする。
悪くない。
けれど、私が欲しいのは、あの、マジカルなくらいの作用だ。
私が英語でセッションしてすら起きる、あのマジカルさ。
あれが欲しい〜!と、私は、再び思った。
私は、自分は技法の名前はいらない、その名前でまとめられている技法の機能と作用が欲しい、と強く思った。
名より実が欲しい。
人が願いや希望にたどり着くのを手伝う質問。
人がその人の内的世界を豊かに発展させ、新しい何かに人が辿り着いたり、その人自身で新しい何かを生み出すのを手伝う質問。
人を解放する質問。
英語に力を借りながら、同時に、日本語の知恵も探ってみようと、私は思った。
自分の得意分野を使って。
彼らがそうしてきたように、真摯に学び、好奇心いっぱいで探究してみよう。
日本語の世界を。
英語に助けてもらいながら、日本語で、クリーンな実験をしよう。
そして、あ〜、これ、一生かかるなと、私は思った。笑
ま、とりあえず、実験をシェアしながらいけばいいな。
仲間や友達と、遊びながら、楽しみながら進めばいいのだ。
彼らもやはり、そうしたように。
完璧でなくても、シェアしていけばいいのだ。
質問を構築した彼らもやはり、そうしたように。
人を助けるのは、完璧なものではない。
人を助けるのは、喜びを生み出すものだ。
完璧でなくても、喜びが生まれ出るなら、ガンガン、シェアすりゃいいと、私は思った。
少しでも、生まれるなら。
日本語の世界に、西洋の知恵を運びこむとは、英語を日本語に翻訳することではなく、きっと奈良漬のようなことだと、私は思った。
奈良漬は、遣唐使のお坊さんが中国から漬ける知識を持ち帰り、奈良で生まれた漬物だ。
同じやり方、同じ機能、違う名前に、違う味。
美味しいことが重要だ。
つまり、喜びを生み出すことが重要だ。
名前は違っていい。
ちゃんと奈良漬は中国由来ですよと書けばもめない。
自分だけが作ったといえば抗争になるのを、私はお隣さんたちが繰り広げている漬物抗争に学んだ。
それから、ああ、そうだ。
これは、最初はひとりの作業だと理解した。
ひとりぼっちじゃないけれど、ひとりでやるしかない。
私が感じてきた感覚は、私の中にしかないのだから。
そして、私は、長い間、自分を縛ってきたことから体が解放され、不自由な感覚が消えていくのを感じた。
訳をみつけよう。
この訳は、翻訳を意味しない。
同じ作用、同じ機能を持つ質問、それがこの場合、訳することだ。
大事なことは、どんな質問かじゃない。
大事なことは、その質問が、どういう働きをするかだ。
どのように作用するかだ。
How it works.
私は、しつこく言われ続けた言葉を心に刻みこんだ。
そして、私は、まだ誰の足跡もない、真っ白なキャンパスが目の前に広がったような気分になった。
喜びを、描こう。
そして、私は一冊の本を手に取った。
徹底的に機能と作用を把握すべく、私が手にしたのは、英語の本だった。笑
英語のお勉強も、やはり継続が決定したからだ。
喜びを生み出すために。
黄色いバスにも英語はいる。