神さまが消えた世界
私は、神さまがいなくなる世界を四度見たことがある。
これが、私が自分は信仰を持つけれど、他人のそれはどうでもいいとドライな理由のひとつだ。
私が見たのは、非常に信仰深かった自分の祖父母と夫の祖母の晩年だ。
彼らは認知症になり、やがて、神さまは消えた。
毎日毎日、仏壇に手を合わせていた人も、感謝しなさいと私に教えた人も、やがて、神さまはいない世界に生きるようになった。
けれど、彼らに残った習慣がある。
それは共通していた。
「ありがとう」と、言葉にして感謝を伝える習慣だ。
そしてそれは、彼らを助けていた。
人は、自分に感謝してくれる人には優しく接する。
そして、介護にクタクタな人の心も、ありがとうは慰めることができる。
彼らの世界から神さまは消えたが、神さまを信じることで彼らの身についたものは、彼らの晩年を少しばかり豊かにしたような気がする。
ありがとう、ありがとうと何度も言ってから、彼らはこの世を去った。
私は、神さまという存在は、個人においては、認知の枠を出ない存在、脳が認知しなければいない存在だと、自分のこの経験から感じている。
なんでもそうだが、感じなければ存在しない。
だから人には無理強いしない。
個人においては、神さまと恐怖は似たようなものだと思っている。
人類の希望の最大公約数の名称が神さまかもしれないと思ったりもする。
(本当のところ、どういう存在なのかは、私には計り知れない。)
しかし同時に、神様を信じた経験が彼らをある意味で守ったのも感じている。
身についた信仰からくる身についた感謝は、信仰が消えても、感謝を残す。
神さまという単語が消えた世界でも。
特に信心深かった2人は、最後近くまで、笑って感謝し続けていた。
生きてきたように、彼らはそこにいた。
ただし、神さまだけにありがとうを言っているのでは、神さまが消えるとその感謝も消えるわけで、あまり意味がないなと思っている。
私は、非常に自己中だ。
かなりの高い確率で、私は認知症になる。
薬ができていなければ、祖父母と同じ道を辿る。
やがて、私の世界からも神さまは消えるはずだ。
その時、自分がどういう状態で人に接するかで、私が信じたものは何だったのかがわかるような気がしている。
願わくば、感謝を撒き散らす日々がそこにあることを祈る。
人生の最後まで、人に与えることができるものは感謝ではないかと、思っている。