算数の問題をみんなと一緒に解くのが苦痛じゃなかった人が持つ好み

そこにいたのははるか昔になるが、今でも、私は、小学校、中学校などは、いかに組織で管理しやすく、同時に、能力も高い都合のいい人間を育てるためのプログラムだと思っている。


毎日同じ時間から始まり、同じ時間に昼ごはんを食べるなどはまさに。

今、別にやりたくなくても、興味がなくても、算数の問題を、みんなと一緒に解くことも。


批判してるんじゃなくて、ただそう思ってる。


管理しやすい人間でいることは、そして、管理されることに不快さを感じないことは能力のひとつだ。

自分が持つ才能が、大きい集団の中で発揮される類のもので、なおかつ自分がリーダーをしない人には大事な要素だ。

その人が安定を好む場合には、これは身につけておくべきだろうと思う。

同じことが続けられる、人の指示を遂行できるというのは、安定を維持する偉大な才能だ。

本当に。



さて。

最近、何を好むかは本当に大きいとよく感じる。

特に、安心とか安定とか好奇心とか、その人の心が好むもの。


例えば、私を人でなしだと思っているだろう人は、もはや家族くらいだと思われるが、それは、私の好きな人の種類に影響を受けていると、私は気がついた。


私の好きなものが、人の笑顔、人の喜び、人の幸せ、人の楽しみだったことが、私を人でなしには見せていない。


私は、好きなものを周りに増やしたい一心で動く。

すると、それは、他人にとって親切だったり、励ましたり、サポートになったりするしかない。


もしも、私の好きなものが、人の泣き顔、人の不幸、人の悲しみだったなら、私は、まるで違う行動をしただろう。

根っこは他人のためではないのだから。


好きなものがそうではなかっただけで、私がしていることは、世に一般に自分勝手と言われる人がやっていることと根っこは同じだ。


好みが違っただけ。

だから、私は、たまに、自分をいい人だという人、人格者だという人が現れると、ひどく居心地の悪い気分になる(笑)


ただ、この私の好みは、私の人生をやりやすくはしている。

私は人には親切にする。

当たり前だ、私の欲しいものは喜ぶ顔だ。

結果、人も私に親切になるという副産物が生まれて、結果、私は人に感謝で満ち満ちる。いと平和な日々である。


スタートは、単なる好みだ。



さらに最近、私は、自分の心が好む要素を追求して、その心の好みを現実にはどうすれば得られるかを考えた時、いろんなことがまるで変わると気がつきはじめた。


好きじゃない要素の排除、それを他の方法に置き換えることに心を配りはじめたら、まあ、体がよく動くこと。



やりたいことしかやりたくねえ、好きなことしかやりたくねえ、というのが、私の根っこの根っこの本気の好みと思われる。


つまり、いくら、教育されたとしても、それが身につくかどうかは、本人の好みが関係してるような気がする。


そして何も考えずに続けられることは、ほとんどの場合、その人の根っこが好む要素をなんらか含む。


その好きな要素に気がつけたら、もっと能動的に、いろんなことの豊かさが増すような気がする。