理由
ああ、クリーンランゲージの影響だ、と気がついた。
私が、英語にも日本語にも、もっと言うなら、世界中の言語にすでに翻訳されているそのギリシャ語の本を、ギリシャ語を読むのが早いでしょと思った理由。
言葉を変えてしまうことは、ある種、その人の体験を奪うことだと習い、その人が話した言葉そのものを丁寧に扱うこと、なぜなら、言葉はその人の世界観や価値観を表しているから、という技法の持つ基本哲学の影響だ、と。
私は翻訳者の翻訳に問題があると思っているわけではない、ただ、その文章を書いた人が書いたこと、つまりは、その人が体験したことを知りたいのだと気がついた。
文章を読んだからと言って、体験の全てを知ることはできない。
本人に聞いてみなければわからないのだ。
何しろ、その文章は、メタファー(比喩、例え話、暗喩など)だらけである。
しかも異なる時代、違う文化の中に生きた人々が書いていて、なおかつ、本の著者はひとりではなく、著者達も生きた時代がずれている。
著者達自身が、共通した概念定義を持って書いたかも謎だ。
そして、メタファーの意味は、本人に聞いてみなければわからないということは、私は、この数年、見続けた。
概念の定義も文章の中に登場していない。
だから、のちに、概念の定義で、激もめしてきた歴史を、その本は持ち、今なお、それは続いている。
逆に、わざと定義しなかったのではないかと感じていたりはする。
いかようにも定義づけられるように。
実際、定義は時代や人によって変わっている。
言葉の概念定義は、時代によって変わる。
その本だけではなく、日常で私たちが使っている単語も、もともとは別の意味だったものはざらにある。
人によっても変わる。
その人の体験と、個人の言葉に対する定義づけがリンクしていて、さらに、その体験はひとつではない。
体験を持たない子供は、辞書の定義が言葉の定義だろうが、体験を持つ大人は違うことが多いだろう。
本人が気がついていなくても。
言葉は、時代や人の中で意味を変えながら生き延び続けていて、概念定義がしっかりしている言葉は、逆に時代と合わなくて古語になったりしている。
その本は、本の中で、概念のほとんどを定義づけていないから、生き延びてきたとも言える。
私が手を伸ばしたその本は、その本を基本とした学問はあるが、本そのものは学問書ではない。
そして、なるほどね。
今回は、理由がわかったのが早かったな、、、と思った。
それから、ということは、私は自分が思うより、この本に心惹かれているようだと思った。
こんなくそめんどくさい作業は、よほどでなければするまい。
そして私は、ただ、まっすぐに、この本を知りたいんだな、と思った。
その世界観を知るために。
著者の体験から学びたいのだろう、と。