検証1
実験のレポートを書く時、必要なことは検証作業だ。
再現性を持たせたいものであれば、再現可能にするために、なおさらだ。
結びの5年で、私がする必要があることのひとつは、うまくいったことに再現性をもたせるため、それからうまくいかなかったことを再現しないための検証作業だと気がついた。
この20年少し、私は自分の目に留まったものにはなんでも手をつけたけれど、試したすべてがうまく作用したわけではない。
こりゃだめだ、と途中で結論付けたものもある。
私が評価し観察していたのは、それが幸せや喜びに繋がるか、自分の心だけを自己満足させるだけではなく、現実を動かすかどうかだ。
魂や心だけを満たすためのものは、古くからたくさんある。
それらの多くは、普通の一般庶民が満たせるもの、救えるものは魂しかなかった時代に生まれ、長い時を生き残ってきたので、今更検証する必要はないと思われた。
魂は救えるのだ。
魂があるならば。
魂について、それが存在するかどうか、存在するとしてそれは一体なんなのかという話はちょっとおいておいて。
それを始めると、それだけで話は終わる。
とりあえず、多くの人が、魂は存在すると受け入れていて、それを救いたいと願う。
死んだ人の魂が、年に一度、還って来る国に私は住む。
とこの場合、魂は存在するということになる。
そして、それを救う方法は、すでに見つかっている。
古くに。
今よりずっと必死に魂を救う方法は、追い求められていたと思う。
それしか救えなかったのだから。
お腹を空かせ今にも餓死しそうな子供が目の前にいたら、今なら、食べものを分けることを考えればいいけれど、魂を救う方法がたくさん生まれた時代には、それが不可能な場合があった。
どこにも、本当にどこにも食べものがなく、お腹を空かせたまま亡くなっていく人が目の前にいたら、願えることは、魂が救われるようにしかない。
魂という言葉は、さまざまな国の言語にあるけれど、その言葉と概念を生み出した人は天才だと、私は思っている。
それが事実なのかどうかは、この際、私にはどうでもいい。
それがあるということで、いかに多くの人が救われたか、そして今も救われているか、魂という言葉が持つ実績は素晴らしい。
究極の状態にある人でも持っている救われる要素があるということが素晴らしい。
しかし、私は、自分の実験対象から魂は外した。
書いたように、すでにその方法はあるからだったし、魂以外も救える時代に私は生きていて、実験を始めた当時の私を悩ませていたのは、魂ではなかったからだ。
人を救いたいならまず自分を救え、人を幸せにしたいならまず自分を幸せにしろとM先生から言われた頃、私が問題を抱えていたのは、私の感情、つまり心と私の現実だった。