つまり、話は、構造

 

わかった。

話は、構造だ。


日本語でクリーンランゲージを覚えていくときに、英語の学習者とは、逆順でやった方が効果が高いかもしれないことがあることに、私、今朝、気づきました。


私が観察してきた結果、日本語話者は、文脈を読み取るのは下手くそではありません。


ただし、見ている限り、感情に重きを置きすぎる傾向がある節はあります。

これは個人差がありますが、まあ、だいたいの人に「感情は何より大事なものだ」という刷り込みはされているかと思います。


相手を思いやりなさい。

相手の立場に立って、物を考えなさい。

相手の気持ちを考えて、言葉を選びなさい。



これは、すぐに気づけますし、場合によっては、セッションをするにあたって、アドバンテージとして働きます。



日本語は、流れを重要視する言語です。

文脈を追いかけていくのは、そもそも、小さな頃から、誰もがトレーニングされています。



対して、構造。

シンボリック・モデリングの二本柱のひとつと言ってもいいかと思います。


文脈と構造。


私は、自分自身が、図式化は得意なので、これに気づくのが遅れました。

日曜日、集合体のそれがうまく頭の中でできず、今、ちくしょ〜!練習する!となってますけども。

それはまだ自分がさらに成長できるという喜びでもあります。



そして、私のトレーナーのみなさまが、英語話者だったために、構造の話、これは、おおむねアドバンスで初めて登場し始めます。


ペニーとジェームズは、最初から、見せていますが。

彼らの基礎トレーニングは、今のところ、英語でオンラインでしかありません。



なぜに、そうなのかと考えたとき、ああ、学習者が英語話者だからだなと、私は、ようやく気づいたのです。


そして、私が開いていた勉強会で、「ああ、今、意味がわかった」と、リハビリ中のファシリテーターが口にしたのは、いつも、私が図を描いた時だったからです。



「いつもと違う視点」はこの場合、文脈を追いかけていくことではなく、構造を追いかけていくことにあると、私は気づいたのです。



つまり、最初から、少しずつ、その練習をする必要があると気がついたのです。


議論も練習しないといけません。

それは、推測のプロセスの練習です。

これは、西洋圏の英語話者は、成育過程でトレーニングされています。


相手を思いやるのではなく、相手の思考の中にある理屈を推論する練習が、日本人には必要です。

日本で教育を受けたほとんどの人が、その練習はしたことがないはずだからです。


(その練習に、ものすごく効果的なものが何であるかは、気づきました。これは、私が参加している2つの勉強会で気づきました。

仲間とは、ありがたいものです。


あるものさえあれば、普段は自分の意見を言わない人も、楽しみながら、それを言い、みなが、違いの存在を、抵抗感なく受けいれられるのです。

そして、無茶苦茶、活発な議論が、そこに生まれるのです)



つまり、ファシリテーターのバックグラウンドが違うということ。


クライアントについては、私が経験してきた限り、違いはありません。


私の考えでは、技法については、日本式は、一部質問を追加する以外には、必要ありません。

翻訳の解釈には工夫がいりますが、それは、ファシリテーターが日本人なのであれば、普通に日常でやっていることなので、簡単にできるはず。


少なくとも、西洋の人たちと日本人をセッションして違うねえと私が思うのは、日本人は「私」を言わないことくらいです。

あとは、たまに、エージェントを言わない。


その言わないことを引っ張り出す追加質問は、必要だと考えています。

目星はついているので、これは、あとはレポートをまとめるだけ。



クライアントの価値観はやや違いますが、日本語でも英語でも、似たようなことを言いますし、そもそも、個人を追求してますので、個人の価値観はバラバラです。


でなきゃ、しつこいようですが、相手が何を言っているか、ちんぷんかんぷん、わからないのに、私がセッションできたことがおかしいのです。


アセスメントを受けていた時期ですら、私が理解していたのは、クライアントの言葉の半分です。

私のセッションメモは、図とカタカナでほとんどしめられていました。

意味はわからない、でも、位置関係ならわかる。ジェスチャーしてくれるから。

(私の耳は、ピアノの聴音で、20年ほど、トレーニングされていました。それは大きかったと思います)



今は6-7割。

人によっては、全部、聞き取れている時も、たまにあります。たまに。



よかったよ、英語がわからなくて、最初。

わからないという問題のようなリソース。



私がこれに気づき、他の人が気づかなかったのは、単に、普通、あんなに英語がわからない状態で、英語で運営されるトレーニングに、通訳も連れずに、人は飛び込まないからです。


そんな無茶はしない。

まあ、いろんな人たちがすごく助けてくれたから、成立した話ではあります。

人に恵まれました。

それは今も同じ。

私の英語が誰にとっても問題にならないように、すごく配慮されているのは、いつも感じます。


暖かい学習環境に感謝いたします。


あ、そうそう、これが、クリーンランゲージを学ぶのに必要な環境であることも、私が数年かけて、体で覚えた一つです。


わからないとき、そこに、何が必要なのか?


安心して、わからない、を味わえる環境です。


これは、クライアントが体験することでもあります。

ファシリテーターが、「わからない」を安心して受け入れられる感覚を覚えることは、クリーンランゲージを使ってセッションする人が体で覚えておく必要がある一つでも有ります。


Not knowing with comfortable.



それは、セッション中に、再現する必要がある感覚です。

わからなくても大丈夫なんだ。

考えてみよう。

待ってみよう。


知恵が現れるまで。



まあ、私自身は、自分がトレーニングを受けている最中に「わからない」が登場すると、不貞腐れた顔をしますし、トレーナーに言い返したりはしますけど(笑)

そして、だいたい、賢い人が集まっている場所において、私は、ひとり、違うことをやっていることが多い。


みなが賢すぎて、何の話かようわからんことは多々あります。

複雑すぎてわかりません、と意見表明して、大先生に嫌な顔(笑)をされることもあります。

大先生は誰よりも大人気ないので。まあ、かわいらしくて、私は大先生が好きです。

私は、怒られていることが多いですけど。

できが悪いから(笑)


しかし、それが許されることを、私が知っているからだと思います。

安心している。

信頼している。


そして、私が、その場が好きなことは、間違いありません。

全力を出していい場が、楽しいのです。



そういう構造がそこにある。



だらだらしましたが、つまり、話は構造なのです。