「なぜ?」とは問いかけない

「なぜ?」と理由を問いかけないのは、クリーンランゲージの質問の特徴のひとつです。


代わりに尋ねます。


それは、どこから(やって)来たの?


Where does/could … come from?



あなたは、それを、どのように/どうやって知るの?

または

どうやって、あなたには...だとわかるの?

あなたは、どうやって、...を知るの?


言い回しは、日本語なんで、まあ、いろいろ。私はクライアントが使っている言葉によって、言い回しを変えています。


How do you know…?



その直前に、何が起きるの?

または

その直前に、何が起きたの?


What’s happen(ed) just before…?



前の質問は、何かの出どころ、つまり、はじまりの場所を探しています。


真ん中の質問は、理由ではなく、それを知る仕組みやプロセス(過程や経路)を探しています。

それから、その人の中にある知恵。

その人が知っていることで、意識化、言語化されていないことの発露も誘っています。


最後の質問は、何が起きる直前、つまり、きっかけになっている出来事や何かを探しています。



一般的にはそれらをまとめて、理由、というのかもしれません。


ちなみに、私が会社員だった頃に、知っておきたかった質問は、後の2つです。


なぜかというと、失敗した部下に、なぜと理由を聞いても答えられないことが多かったからです。

そして、「次はこうします」は登場しても、失敗した理由がわかっていないので、人によっては、失敗の再現率が高かったからです。



私の聞き方が悪かったんですね、ごめんなさいと、反省しました。


さて。


時々書いていますが、現在、私は、初心者さんや途中でわからなくなる人が、セッション中に固まる理由を探求しています。


固まる出どころは何?

それは、どうやって起きるの?

固まる直前には、何が起きてるの?


これは、再現率が高いのです。


セッション中にわからなくなることは、スキル関係なくあります。

固まるみたいなこともあります。


私は、例えば、クライアントさんがガンダムのメタファーが登場しはじめたら何の話ですか?と、さっぱりわかりません。


それはどういう理屈でそうなりますか?という、かなり個性的な独自の理屈を繰り広げるクライアントさんもいます。

その場合、私には、さっぱりなんのこっちゃらわかりません。


私はクリーンランゲージをだいたい10年くらい使っていますが、相変わらず、メタファー・ランドスケープは、毎回、わからないことだらけです。

人の心の中に広がる景色は、どんな映画やドラマより、奇想天外で、細部まで作りこまれています。

そりゃそうですね。

その景色を作り上げるまでにかけた時間は、どんな映画やドラマより長いですものねえ。


どんな人のものでも、心に広がるその景色は、その人の年齢分の制作時間がかかっている力作です。

わずか数十分、目の前に座るだけの人に全容がわかるわけがないと、よもや、私は思っています。



わからないことは、悪いことではありません。


クリーンランゲージは、探求します。

わかってる話をすることを、探る、とは言いません。


そして、この場合、わからないのはファシリテーターだけではなく、ほとんどの場合、クライアントもわかっていません。

聞かれたことがない、考えたことがないことを、問いかけられていることが多いからです。


日常で聞かれたことあります?


「その喜びには、大きさや形がある?」


「その自分は、どこにいるの?」



けれど、セッション中、「わからない」に伴う体験、それを体験することで、結構、学習に影響が出ることを理解しました。


それで、私は、探求し始めました。


まず自分を探求してみたら、私自身は、「わからない」は問題にはならないので、気持ちがよく理解できなかったというのもあります。


自分を探求した結果、わからない難しい、ともならない。

わからない何で?!(好奇心)のことが多いようだなと。


私は、クリーンランゲージやシンボリック・モデリングを難しいと感じたことがありません。

けれど、わからないことは山ほどあったし、今もあります。

けれど、難しいと感じたことがないのは、私のわからないの後に起きることが、いつも好奇心だったからだということには、気づきました。



おそらくは、個人個人、そこで何が起きているかは違うはず。

けれど、ある程度は、固まる理由には、一般的な要素もあるかもしれないと思ったからです。


私は、それを知りたいと思いました。


......


そして、少し前に書いた、ヒューリスティックの話ですが、どうも、このプロセスと、これは関係ありそうだと、私は昨晩、思いました。


実にいいタイミングで、ワークショップがありました。(まだ終わっていない)


ラッキー。



理由はどうでもいい。


そこに再現性があるならば、どのようにそれが生まれ、発生し、どのような影響をもたらしているかを、ただ、モデリングすればいい。


一般化しなくていける!と、私は嬉しくなりました。



最初の時期に、それを教えておけばいい。


そうすれば、わからなくなった時、学習仲間とモデリングしあいながら、進んでいける。


教える人たちが、それを覚えていればいい。



ああ、愛だわ、と、私は嬉しくなりました。


そして、なぜかはわからないけれど、心の隅っこに、小さな寂しさが生まれたことに気づきました。


それから、やったことがないくらい一生懸命、勉強しよう、と、思いました。


寂しさの理由を探求する必要は、ありません。ご想像にお任せします。