次は、ヒューリスティクスだって。
私の中で、すごく印象に残っている出来事があります。
そのとき、私は、自分のセッションを録画していました。
一度落ちたシンボリック・モデリングのアセスメント(セッションスキルが一定のレベルに達しているか認定してもらう)のための動画でした。
過去に書いてますが、一度目の落ちたアセスメントは、ひとりからはエクセレント、もう1人からは、けちょんけちょんの評価でした。
評価が割れることは珍しくありません。
むしろ、評価が割れるので、最低2人から観てもらうことになっています。
けちょんけちょんの評価は「トレーニングを受けただけ、手順をこなせる、そんなレベルは求めていない」「なぜ、副詞と動詞を拾わない?」「なぜ、何回も続けてその質問をした?」
と、まあ、このような塩梅でございました。
英語や英語!と、評価のメールに文句を言った数年前の私は考えました。
一ミリでも英語のせいにしたとき、返ってくる言葉はわかっていました。
「それは君の問題であって、クライアントには関係ない」
(私は毎回、一度、落ちますが、今は、むしろ、彼らが全く手加減しなかったことに感謝しています)
私は、これは、なにかしら工夫が必要だ、そうしないと永遠にパスしないと思いました。
なぜならば、私は、その頃まだ、英語のセッションをするときは、半分以上、音とノンバーバル(ジェスチャーや表情、呼吸や姿勢などの非言語表現)を頼りにセッションしていたからです。
副詞なんて、意味がわからず拾うにはリスキーすぎる!
私には、クライアントが何を言ってるかさっぱりわからない時もありました。
でも、ある程度はできちゃうんですね。
セルフ・モデリングを手伝っているだけだからですね。
他の技法だったら無理だったと思います。
クライアントがセルフ・モデリングをするので、この場合、私がわかることが重要なのではなく、クライアントが自分のことがわかることが重要なのです。
ちなみに、話それますが。
余談ですけど、私が気づいているクリーンランゲージやシンボリック・モデリングのセッション中、わからなくなって固まる人の特徴のひとつは、「自分がわかろうとすること」「相手の気持ちを推測しようとすること」、私には、そうしようとしているように見えることです。
これは、日本人の人に割合が高い気がしています。
思いやり文化の影響かもしれませんし、その人の中に、理解したい、わかりあいたいというアウトカムがあり、それが勝つのかもしれませんしと、推測しています。
または、その人の「人を助ける」の定義の中に「気持ちを理解しわかりあうこと」が含まれているかもしれませんし。
まあ、いろいろ理由は推測できますが、推測にしか過ぎません。
単に、自分が知識として持っていないバージョンのパターンが登場して固まっているだけかもしれないし。
この場合は、理由ははっきり、単なる知識不足です。
セッション中、わからなくなって固まる人は、何が起きているかをセッションのお題に取り上げてみると、いろいろ興味深いことが登場するかもしれませんねと思ったりもします。
自分にとって大事な価値観やリソースが隠れていることもあるかもしれません。
自分が持っているリソースを活かしたやり方もあるかもしれませんね。
ともあれ、誰かにいつもとは違う考え方をしてみてもらうとき、自分だって、いつもと同じというわけにはいかず、いつもと違うことをやるには、慣れるまでは、それなりに練習が必要です。
さておき。話を戻します。
工夫することにした私は、本物のクライアントさんにクライアント役をしてもらった方が、自分のコンディションが整うと判断して、英語が話せてクリーンな質問に耳慣れしているクライアントさんに協力をお願いしました。
どうせなら、誰かの役に立ちたいですし。
そして、クライアントさんは素晴らしかった。
クライアントさんは、わずか40分で、変化過程まで辿り着いてくれ、私は、よっしゃ!と思いました。
そんなこんなで撮影した動画に、私は、日本人相手のメールであれば、絶対に書かないであろう「素晴らしくよくできたと自分では評価しているポイント」を書き連ねたものを添えて、提出しました。
その頃には、私は、日本人が美徳とする謙虚は、彼らの目には「自己評価が低い卑屈さの表れにしか映らないこと」を、体験的に学んでいました。
それより、ポジティブさを全開にした方が、コミュニケーションがスムーズなこと。
文化の違いなんでしょうね。
ただ、こういう「よくできた!」に着目する人々が考案した技法だから、アウトカム志向ということになるのかしらね共、思います。
ともあれ、日本人相手なら、引かれるくらいに、私は「ここ!ここがよくできた!」と書いて送りました。
返ってきた評価は、合格レベルでしたが、よくできていたと書かれていた内容は、私が自己評価した部分とは異なりました。
「ああ、そこを見てるのか」と、勉強になることはいろいろありましたが、私の印象に残ったのは、ある部分で、私が何も考えず、質問を突っ込んだ箇所です。
「それは何で?」と純粋に疑問に感じたからだったのは、今でも覚えています。
評価では、その質問から流れが変わっていた、あそこがよかったと書かれていました。
一番、何にも考えていなかった箇所です。
なぜ、自分がその箇所、その言葉を直感的に選んだのか、私は、数年、考え続けてきました。
同じようなことが、その後、何度もあったからです。
ルールも何も忘れてる、ただ口が勝手に質問したみたいな感覚。
そして、自分が観察したセッションでも同じようなことがたくさんあったからです。
そして、私、数日前に届いたお知らせメールを読んで、にんまり笑いました。
それは、数日後に行われるシンボリック・モデリングのオンライン・ワークショップのお題と事前課題でした。
お題は、ヒューリスティクス。
自己発見的とか経験則とか、まあ、いろいろな訳がございます。
NDM理論というのが有名かもですね。
洞察力の本を書いた人が書いた本が日本語にもなっています。
(シンボリック・モデリングだけ追いかけておいたら、新しい理論情報が入ってくるので、その辺も割とお得と感じている、お得が好きな関西人。)
私の数年来の謎は解けるか、否か?
なぜ、そこで、その言葉にその質問をした?
私が、理屈では答えが出せなかったものに、答えは果たしてもたらされるか?
その質問はどこから来たのか?
ワクワク、いや、にんまりします。