どうしようもない世界の中で
数ヶ月くらい前から、たまに頭に浮かぶ思いがある。
それは、「もう、ただ優しくあればいいのかな?」というものだ。
優しくいるしかないのかなの場合もある。
それだけが、この先の自分の役割なのかもしれないなというような感じ。
これは、強くあれとイコールだ。
強くなければ、優しくいられない。
ただ強く、ただ優しくあれというような感じ。
私は、パンデミックでは、正直、あまり深いところでは心が動かなかった。
死についての自分の考え方も関係はしていると思われる(人は必ず死ぬ)が、日本にいる限りは、壊滅的にひどい事態にはならないだろうと感じていたからだ。
流行病に感しては、ワクチン無料、医療無料。
経済についても、踏ん張っている節は見える。
ワクチンに関する諸々の世情も、ぶっちゃけ個人的には、好きにすればいいじゃんと思う。
何を騒いでいるか、私には意味がわからないが正しい。
なぜなら、ここは日本だ。
例えば、ワクチンを否定して打たなかったために、感染後重症化したとしても、ちゃんと治療してもらえるから。
だから、打ちたい気持ちも、打ちたくない気持ちも、大したことない。
流行病を信じようが信じまいが、大したことじゃない。
ここが日本である限り。
そのうち出来上がる飲み薬も、いち早く手に入れるのだろうから、それまでの時間つなぎをどう考えるかだけの話だ。
ここは、医療体制が整わず、栄養状態がよくなく、石鹸ときれいな水で手を洗うのが難しく、感染しても隔離も難しい、自己免疫だけが頼りな国でもない。
生活保護の仕組みがない国でもない。
国民皆保険制度がない国でもない。
だから、ワクチン、どっちでもいい。
個人個人が考えれば、それでいい、と言える。
打つ打たないの選択ができる。
打ちたいけれどワクチンがない、わけではない。
あるから、選択ができる。
打ちたくないけれど、ワクチンは義務なわけでもない。
多分、この先も義務にはできないだろう。
個人の意思を尊重すると決まっているから。
待つ人が多い日本製のワクチンの治験は、どこでされているか知っていますか?と、たまには思う。
調べりゃすぐわかる。
日本では打たないことで不利益が現れたり、医療が必要になった時、後悔すればそれですむ。
ほとんどの場合は、しんどさに自分の選択を後悔するだけですむだろう。
なぜなら、ここは日本だから。
後悔だけですむ話は、大した話じゃない。
だから、大した話じゃない。
恵まれた側の世界に生きている人たちの、恵まれた環境の中での話だ。
大した話じゃない。
私の心が傷んだのは、別の話だった。
そして、最初に書いた思いが浮かびはじめた。
私の心が傷んだのは、アフガニスタンの話だった。
行ったこともない国の話で心が痛むとは不思議な話だった。
日本で流行病で学校に行けなくなった子供たちには、気の毒に、親も大変だなくらいしか思わなかったのに。
アフガニスタンの女の子のことを考えると、自分の胸が傷んだ。
不思議だ。
そして、どういうつながりかはわからないけれど、ただ、優しくいればいいのかなと、私は思いはじめ、そして、自分の中で何かが動いた。
そしてそれから、全部を見る目が優しくなったような気がした。
どうしようもないことばかりの世界の中では、優しくいるしかないんだよと、何かが私に教えた気がした。