ローカルルールに救われた話
「人は話を盛る。
人の話は3割くらいで聞いておくこと。」
「話にはボケとオチがいる。
それを考えてから話さねば、オチは?とつっこまれる。」
「面白ければ、とりあえず許される。」
「話の最後に、知らんけど、と言っておけば、責任は追求されない。(だから、人の話は3割で聞く。)」
私が生まれ育ったのは、お笑い芸人をたくさん生み出している地域だ。
一番有名なのは、ダウンタウンだ。
私がこれがローカルルールだと気がついたのは、大人になった後だった。
笑いはいつもそこにあった。
父方の親戚は、みな、やかましかった。
大人たちは、集まっては中川家の漫才に出てくるおっさんやおばはんのような会話をしていた。
毎週土曜日は、お昼ごはんを食べながら、吉本新喜劇を観た。
私は大人になるまで、それは普通だと思っていた。
大学生になった時、関西以外の他の地方から来たクラスメイトが「ねえ、なんで、みんな自分の欠点や失敗を、あんな楽しそうに話すの?」と尋ねてきた。
彼女が言うには、それらは恥ずかしいことなので隠すことだということだった。
「面白ければ許される。」
そして、「自虐ネタは誰も傷つけないので最も安全なネタ。」
どんな美人も、笑いは取りに来る。
賢くないと言われても、大して傷つきはしないが、面白くないと言われたら傷つくメンタリティがそこにはあった。
子供時代、「あの子、おもんないねん」は恐怖だった。
私は、うけることしか考えていなかった。
今でも覚えているのは、新入社員研修で、1ヶ月ほど東京に行った妹が「話にオチがないねん。笑いがなくてしんどい」と連絡してきたことだ。
それから数年後、自分が、東京に転勤になった時、私は隣の席の同じ歳の同僚の男性に言われた。
「全部の話にオチはいらないんだよ。女の子は、笑いを取らなくても、ニコニコ笑ってれば、それで許されるから。」
その価値観はなんだ?
笑いが取れなくても許される?
それは、パラダイスか?
今。
「オチは?」と、大阪育ちの夫はよく言う。
オチはいらん!という価値観がこの世に存在することを夫にも教えてやりたい。
ただまあ、ファクトチェックが必要なほど世の中カオスな時は、「人の話は三割で聞く」習慣が身についていたこと、なんでも笑いにしてしまうことは、役に立っている気がする。
ただし、それが許されるのは、ローカルだけだということは、吊し上げられるコメンテーターから学んでいるので、ブログには書けないことは、たまに残念。
ともかく、この一年も、人々が、流行病すらネタに笑い続けていたことに、私自身は救われた。
夫とは、ニュースをネタにゲラゲラ笑い続けた。
おかげで、空気が重くならなかった。
笑いは寛容さを生むなと思った。
という話。