贅沢な日常

 20才の時、ああ、温かいご飯ってご馳走なんやと思った。


その日、父が、夕方、あつあつの牛丼を買って帰ってきた。

家に電気はついていたが、水とガスは止まっていた。

その前の数日、私たちは、生温いものしか食べていなかった。


その日単身赴任先から帰ってきた父は、「冷たいものしか食べてなかったやろうから」と言った。


私は食に対する執着は薄いが、あの日は、本当に、美味しい、と思った。


そしてそれ以降、私は、しょっちゅうご馳走にありつけることになった。

温かい食べ物が全てご馳走になったからだ。

なんでもいい。

温かければ、全て、それだけでご馳走だ。


私は、ほぼ毎食、ご馳走にありつけることになった。



最近、朝、散歩で、誰も歩いていない遊歩道を歩く時、私はたまに、ああ、空気ってご馳走だと思う。

マスクを外して吸う空気って美味しい。


そして、しめた!と、私はにやりとした。


空気を吸うことは当たり前のことだった。

けれど、マスクなしの空気が当たり前ではない一年があった。


そのおかげで、私は、またしても、ご馳走を手に入れたと。

自然に、自分の内側から湧いてくれた感覚に、ラッキーと思った。

こういうことは、自分の内側から自然に湧かねば効果がない。


私は、にやりとした。


これはいい、と、私は思った。

空気は食べる必要すらない。


生きているだけで、ご馳走にありつける満足感が手に入った、と。



当たり前のものに感謝するのは難しい。

当たり前のものの価値に気づくのも難しい。


奪われて始めて気づくありがたさは、沢山ある。

気づいた時には取り戻せないものも沢山ある。

けれど幸いに、やがて、私の日常から、マスクが消える日は来るだろう。

早くて半年、遅くても数年で。



美味しい空気という贅沢の中を生きる新しい日常が手に入ったと、私は、ニヤニヤした。