ワクチンのはなし。おかげさまで。

 ワクチンの話。


私の周りで、最初にワクチンを打ったのは、田舎の祖母と叔母だった。

人口の少ない地域に住む彼らは、高齢者のワクチン接種がはじまった最初に、ワクチンを打った。

祖母がいるので、家にお医者さんが来てくれて、家で接種してもらえたらしい。


次に打ったのは、母。

まだ1回。

「なんてことなかったわ。採血の方が痛いわね。周りのお友達も大したことないって言ってたわ。」と母は言った。



高齢者とワクチンの話をするのと、近い年齢の友人達と話をするのとでは、内容が変わってくる。

特に子供がいる人達は悩んでいる。


私も、子供がいたら、子供には打たせなかったかもしれない。

相当悩んだのではないかと思う。

今のところ、日本人の子供はほとんど重症化していないからだ。


(私にとって、今の流行病の興味深い面は、国によって、違うことが起きていることだ。

アメリカの子供に起きていることが、日本の子供にはほとんど起きていないし、インドで起きていることは他の地域では起きていない。

同じ病気なのに、地域によって起きることが違うのが興味深い。)



子供や自分たちについては悩む理由は、高齢者に関係なくて自分たちには関係してくることがあるからだ。

治験期間が短く長期的な影響が未確認のワクチンを打つことによる長期的な影響だ。


薬ができそうな気配もある。

さて、待てるか待てないか?

この後、感染状況はどうなるか?

スペイン風邪と同じコースなら、あと半年、辛抱すればいいだけだが、はたして同じコースかどうか?

様子を見るか、どうするか?

ついでに自分は重症化する人の割合が他より低いアジア人。



私は、専門家はどう考えるのだろう?と、いろいろ見てみたが、意見が割れているようだった。


たった一つの答えがない話なんだなということはわかった。

大丈夫だろうと判断する理由と、大丈夫ではないだろうと判断している理由が、同じ理由なのが興味深かった。


私は、治せない副作用があるかどうか、10年先のことは、10年先にしかわからないということねと思った。



さて、私自身のワクチン接種は、どうやら思ったより早く順番が回ってきそうだが、私はどうするかなと考えていた間に、やがて私は、この世に存在する全ての薬とワクチンに対して、深い感謝の気持ちが自分の中に生まれたことに気がついた。


そうか。

これまで当たり前に使えてきた薬も、治験に参加した人達がいると。


薬については、治験に参加する本人は症状がある人だろうから、リスクと共に、メリットを得られる可能性も高いかもしれない。

賭け。


けれど、ワクチンは、まだ起きていないことが起きない様に予防するものだから、治験の段階によってはリスクの方が高い場合もあるかもしれない。

もちろん理論上は大丈夫だから、治験するのだろうが。



それにしても誰かが、そこを引き受けてくれたから、自分は薬やワクチンが使えるのだと、私は改めて気づいたのだった。


私は深い深い感謝を感じた。

じんわりした。



それから、これは、母が言っていたのだが、高齢者の人達の中には、自分がかかるかかからないかということより、自分がかかることで、医療逼迫が起きることを防ぎたいと、迷惑をかけたくないという理由で、ワクチン接種する人が一定数いるらしい。


自分はもう十分生きたから、死ぬのは構わない、迷惑をかけたくないという人たちもいるのよと、母は言っていた。

死にたくないからワクチンを打つのではないと。


(母は、死にたくない人(笑)

孫の成人式を見るまでは死ねないらしい。)



それから、ワクチンを打つか打たないか、選択ができる環境があること。

ワクチンが無料で用意される国に住んでいること。

感染しても、無料で医療が受けられる状況があること。

流行病の入院は、治療自体は無料だ。

経済状態によって受けられる治療が変わるわけではない。



それから、石鹸と水で、手が洗える場所に住んでいること。

マスクが普通にあること。

栄養状態が悪くないこと。

衛生状態が悪くないこと。

予防ができる場所にいるから、様子を見ようかな?とも言っていられるわけで。

場所が違えば、必死さは違うだろう。


これが、石鹸と水で手を洗うのが難しい、マスクを入手するのが難しいという話なら、ワクチンの話は、全く別の様相を見せただろう。




それにしても。

空気はご馳走だと気づいたり、薬やワクチンは誰かが身を捧げてくれたから自分が使えると気づいたり。


何かと、感謝することが増えたなと思った。



おかげさまで、という気分。