ある日のはなし

23才だったある夜中、階下で両親が何やら動いている音で目が覚めた。
階段を降りていくと、父が出かける準備をしていた。

「どうしたん?」と私は言った。
母が「おじいちゃんがまた、行方不明になったのよ」と答えた。

また、というのは、祖父が行方不明になるのは、これで三回めだったからだ。
一度は、祖母と出かけた旅先で姿を消し、しばらくしてふらっと帰ってきた。
何かに祖父が怒って、黙って家に帰ろうとして家がわからなくなり、やがて思い出して帰ってきたらしかった。

二度めは、祖父がいなくなった!と祖母から電話があり、どうしようかとなっていたら、うちの近所の交番で保護されていた。
祖父母の家と私の実家は一時間離れていて、電車とバスを乗り継がなければこれない。
祖父はバスに乗るまでは覚えていて、それから、どこに行くのかわからなくなったようだった。


「おじいちゃん、うちに来るかもしれないから、お父さんだけ、おばあちゃんのところへ行ってもらうのよ。」と母は言い、父はタクシーを呼んで出かけていった。

早朝、祖父は見つかった。
福井県のどこかの終着駅のホームで駅員さんに保護された。
着ていたもののいくつかはなくなり、財布もなくなり、でも杖に書いてあった名前と電話番号から祖父の身元がわかったのだという。

なんでまた福井県?と、みなは不思議がった。


当時私は、昼間が暇だった。
そういうわけで、その一件があった後、祖母から「おじいちゃんの見張り」というアルバイトに、時給1000円で雇われることになった。
週に3日、朝のアルバイトの後、祖父母の家に行き、夜の仕事までの時間を祖父と過ごすだけでお金がもらえるという、美味しい話だ。

祖父はひとりにできなくなっていた。
祖母はその間、近所の人たちと喫茶店でお茶を飲んで息抜きしたり、買い物したりする。

今で言うレスパイトケア(介護する家族が休息をとるためのサポート)だ。
その頃はまだ、デイサービスやショートステイといった介護保険サービスはなかったので、外出好きの祖母は祖父とずっと家で過ごすことが辛そうだった。
祖父はまだ、私のことは覚えていた。


ある日、季節は冬で、祖父と私はこたつに入ってテレビを見ていた。
祖母は、出かけていた。

私は暇なので、テレビを観ながら、楽譜を転調して書いてコードを付け直すという地味な作業をしていた。
当時、私の夜の仕事はピアノの弾き語りだった。

祖父は、新聞を開いて読んでいた。
祖父は白内障で、目がほとんど見えていなかったが、何かを読んでいた。
そして言った。
「ほう。すごいな。金山が見つかったらしいで。」

金山?
なんじゃ、そりゃ。

私は「へえ、そうなんだ、すごいね。」と言った。

祖父の読む新聞には、さまざまな新しいニュースが載っていた。
それは、私の住む現実とは違う世界のニュースばかりだったが、祖父の世界のニュースはだいたいびっくりするようなことで聞いているのは楽しかった。

やがて祖父は、立ち上がって屈伸を始めた。
「足があかんようになったら、終わりや」と祖父は言い、しっかりした足取りで数回、膝を曲げ伸ばしした。

私は、ふと、祖父が福井で見つかった時のことを思い出した。
「おじいちゃん。この前、なんでおらんようになったん?」と私は聞いた。


祖父は「この子が迷子になってな。探してたんやけど、途中でわからんようになったんや」と言った。
この子というのは、ある日、祖父の世界に現れた5歳くらいの身長の女の子だ。
その女の子は、祖父にしか見えない。

「そうなんや。旅行に行ったの?楽しかった?」と私は聞いた。
祖母が私にバイトを依頼した理由の一つは、私が祖父に話を合わせるのがうまかったからである。

祖父はにやりと笑い「そうや。楽しかったで」といった。
そして、屈伸をやめて、こたつに戻った。

確実にまたやるな、と、私は思った。


やがて、私は眠くなりあくびをした。
それを見て、祖父は言った。
「おじいちゃんが見といてやるから、あんた、ちょっとお眠り。この子も眠いみたいやから、一緒に昼寝したらいいわ。」

そして、祖父は、自分の隣の空間に毛布をかける仕草をした。

毛布まで現れる!と私は思った。
見えない女の子に見えない毛布。

私は、おじいちゃんの世界のマジカルさはすごい、楽しそうな世界だ、と思いながら「ほんなら、私も少し寝るわ。おじいちゃん、見張っといてや」と体を横たえて眠った。

そしてしばらく。
「あんた!」という祖母が私に言う声で私は目が覚めた。

祖母は怒っていた。
「あんた!なんで寝てんの!」

「おじいちゃんが見張っててくれるって言ったから〜」と私が言うと、「あんた!あんたがおじいちゃんが出て行かへんように、見張るために来てるんやろ。あんたを見張ってもらってどうするんや!」

だって〜と私は言った。
祖父をちらりと見ると、祖父は完全にボケ老人になっていた。
ぼ〜っとして、目はうつろ。
心ここにあらず。

くそ、おじいちゃん、演技してやがる、と私は思った。


「あんたはクビや。もうバイト代は払えへんで」と祖母は言った。

ごもっともだ。
そして私は、ボランティアに格下げになった。


夜、仕事を終えて家に帰ると、母が笑っていた。
「おばあちゃんから電話があったわよ。クビになったんだって?」

私は「むっちゃ怒っとったわ。おじいちゃん、見てくれるって言ったからいいと思ってんけどさ」と言った。
それから、「そうや、お母さん」と、祖父の屈伸と福井旅行の話をした。

母はクスクス笑いながら「実はお母さんも聞いたのよ。楽しかったですか?って聞いたらね、おじいちゃん、にやりと笑って、楽しかったって言ってたわ」と言った。

「またやるね」と私は言い、「きっとね。おばあちゃんには言えないけど」と母は言って、おかしそうにクスクスと笑った。

おじいちゃん、楽しそうだよねえと私は言った。
母は、そうね、周りは大変だけどね、と言った。

後日、私から話を聞いた父はひとこと「あのおっさんだけは」と言って、複雑な顔で笑った。
祖父は父の父である。
「やっぱりボケたふりをしてんちゃうのか?どうにもお父さんには、あのおっさんは信じられん」と父は言った。

私は妹にそれらを話し、2人はクスクス笑った。