人生というメタファー(ものがたり)
先日、妹と用事で会い、2時間ばかり話をした。
待ち合わせのカフェには、私が先についた。
店員さんが、「お好きな席にどうぞ」と言ったので、私は隅っこの席を選んだ。
そして、しまった!と思った。
そのカフェは、背が高いソファタイプの座席が窓側に並んでいて、私が選んだのはその並びの席だったが、ちょうど隣の席に4人の老人男性が座っていて、かしましく会話していたからだ。
なんとにぎやか。
妹がやってくるまで、私は、そちらに耳を傾けているというわけではなく、聞こえてくる会話を聞いていた。
全員、耳が遠いとみえ、会話は全く噛み合っていなかったが、楽しそうだった。
私はなんどか笑いそうになった。
やがて、妹がやってきた。
妹は席についた瞬間、笑っていた。
理由は、私が笑いそうになっていた理由と同じだ。
やかましいと言いながら、妹は笑った。
私も笑った。
そして、私達は、少しばかり世間ばなしをして、本題に入った。
私は、大丈夫だ、と言った。
過去のデータによれば、私たち2人がこれから長い時間をかけて体験することは、笑い話になることだ、と。
妹も、そうだよね、と言った。
そして、2人は同時に「だって、おじいちゃん...」と言って大爆笑した。
そうやん、おじいちゃんの死んだ日、と私は笑いながら言い、妹も、おじいちゃんの死んだ日、と笑いながら言った。
そして2人は、その日とその前にあった期間と、祖父の死後しばらくの期間に起きたことを振り返って、笑い転げた。
私たち2人が持つ、人の人生のある時期と死についての共通イメージは祖父の人生であるという確認ができた。
いわば、共通メタファーだ。
それは、なんでや?!という笑いに満ちたメタファーだ。
その記憶というメタファーのものがたりに登場する人物全員が、その人らしくおかしな動きをする。
妹は言った。
「誰ひとり、意外なことはしなかったよね。その人がしそうなおかしなことを、ちゃんとした。」
そして、テーブルに倒れこんで笑った。
私も思い出して、笑った。
2人は、それぞれが覚えていることを披露した。
なんやねん、それ!とつっこみ笑いながら。
それは、互いに知らないこともあり、2人の思い出という共通メタファーは、その世界に広がりをもたらした。
私は、大丈夫だ、と思った。
最初に言った、「大丈夫だ」は、妹を安心させるために口にしただけだが、本当に大丈夫だと思った。
涙あり、笑いあり、喧嘩あり、しかし、いつか、もう一度、2人で大爆笑できる。
笑いながら進もう。
これが、私たち姉妹2人のアウトカムのランドスケープだと私は思った。
共通認識があってよかった。
そして、私は、祖父に感謝した。
祖父が遺してくれたものが、これからの私達を助けてくれると理解したからだ。
祖父が孫たちに遺していったものに、もしも名前をつけるなら、それは笑いという希望だ。
笑えない状況ほど笑え。
楽しめ。
なんでも面白くできる。
君たちの中に流れるのは、そういう血だ。
そういう希望だ。
ああ、お腹がいたい、と笑いすぎた2人はいい、じゃあぼちぼちと立ち上がると、隣の老人はもういなかった。
いつ帰っていったか気がつかなかった。
もしかしたら、私達の笑い声がうるさかったのかもしれない。