まな板の上の鯉

最近、よく、自分はまな板の上の鯉に過ぎない気分になる。
この鯉は、今からお刺身になるわけではないけれど、何にもできない。
無力。
まな板は私の周辺。

人生に起きることが変わってきた。
仕事もプライベートも。

ここまでは、何かがある時、自分が頑張ればどうにかなることや自分の成長で解決できることが多かった。
それは主観にすぎず、本当にそうかどうかはともかく、少なくとも、そう思えるものが多かった。


ある時期を境に、人生に起きる出来事は変わった。

自分ではどうにもならない、自分は起きることについていくしかないという物事が増えた。
それらはどうにかなるような気がするが、それをどうにかできるのは私ではない。
私が成長しても、私が頑張っても、それはどうにもならない。
ただ、私に出来るのは、語るか話すかお願いするかだけしかないと思われること。

最善を願って。


そのある時期から、自分の言葉に対する意識が少し変わりはじめた。
私は、少しだけ、注意深く話すようになり始めた。
正確には、注意深く話すようにしようと、思いはじめた。
何気なく口にした私の言葉で、人が動くことが増えたからだ。


同時に祈ることが増えた。
語る以外のアクションとしては、祈るくらいしかできることがなかったからだ。


やがて、いろんな体験を通して、私は思った。

もはや、人の幸せを願うことしか話してはいけない。
よくわからないけれど、全ての言葉は祈りと同じような気がする。
口にしたことが起きることだ。


ちなみに、私の中で、祈り、祈るは、非常に現実的なツールとしての位置付けだ。
私の中で祈るは、願う、望むとほぼ同じ意味だが、その最上級だ。
なおかつ自分が手を出せないこと、自分ではどうにもできないことを祈る。
祈れば、必ず、そうなると私は信じている。

結果として、祈るのは、自分自身のことでなく、他人の幸せのことが多い。

まな板の上で。


そして、自分は、人が幸せなのが好きなんだなと、最近、思った。
私はただ、自分が好きなものを増やしたいだけなんだと思った。

どこまでいっても、自己中な女である。


私は、人が幸せなのが好きだ、人が笑っているのが好きだ。

だがしかし、そこに対しては、自分ではどうにもできない。
人の心や表情を作ることは私にはできない。
それは押し付けられるものではない。
それは、その人が選ぶもので、その人が作るものだ。


まな板の上の鯉。
なんと無力。

できることは語り祈ることだけ。
本当に自分は無力だ。
口先にしか、心の中にしか、できることがない。


あとは、他人を信じることだけだ。
必ず大丈夫だと、その人の力を信じるだけ。


どうにもできないこの無力感は、だが、絶望は生まなかった。

なぜなら、私は無力で大したことはできないが、手元に残ったものが、語り祈ることだけならば、私は、本気でそれをやればいいと思った。

まな板の上の鯉も、ただ動けないだけで、心や口先は使える。


そんなことを考えていた。



だが、ここは大阪。

あほちゃうか。
知らんがな。
どないやねん。
オチは?


私の口先は、今日も元気に、とても幸せを祈っているとは思えない言葉の数々を口にする。

笑わせるためなら、毒もはく。

人を笑わせることが、人の幸せを祈るより優先される。

どないやねん。
好きなものは笑い、幸せ、の順のようだ。

これは、おそらく変わらんな。。。