諦めと受容

私は、セッションという非日常の場所だけではなく、日常の中に、その仕組みを取り入れて実践していくのが好きです。

セッションでも、クライアントさんの思考を、クライアントさんの日常に落とし込むことに、割と比重を割きます。

日常に落とし込むのは、一人一人に工夫が必要なので、面白いからです。


と、きれいにはじめてみたが。

本日、「仕事を溜め込む私」と私は向き合っている。

仕事を溜め込んだ過去の私と、今日それを一気に片付けなければならない私の狭間に、今、私はいる。

ある一定量の仕事が溜まると、私はストレスというかプレッシャーというかを感じる。
重っ(おもっ)!と。

仕事の内容よりも、仕事の量が、私の心理には影響する。

ということを、社会人を長くやってて把握していたはずの過去の私よ。
なぜ、仕事量のチェックを怠ったか!と、まずは自分に腹を立てる。
あの日とあの日にできたはず。
なんで、一日中、トルコのドラマとかみてたりしたんだ!とか。

仕事が溜まると、私の目線は過去に向く。

問題があると、過去を見がち、という癖が私にはある。
これは、勉強したからといって、長年の癖はそうそう変わらない。

しかし、私は思い出す。

「仕事溜め込む、ストレス感じてる、という時、何が起きればいいのでしょう?」

教育されてしまった私の頭は、過去を切り離しにかかる。

そして、毎回、同じ答えがでる。
やるだけの話やん。
仕事はやれば終わる。

答えはいつも同じだ。

ここで、でもやる気がしないのよね、とは登場しない。
登場したらまた考えるが、やる気がしなかった過去の私と、今日の私は違う。

そして、過去を責めても今日は変わらん、今日の現実に私は向き合うしかないと受容する。

次に、休憩時間を先に決める。
ここで、頭は未来を向く。
より快適な未来を検討しはじめる。

問題を解決するプロセスは、しんどくなければいけないという決まりはない。
快適な気分で問題解決をしていい。


休憩時間が重要なのには理由がある。
なぜなら、私の集中力は体力と比例していないからだ。
体力はないのに、集中力は続く。
5.6時間なら休憩がなくても、余裕でいける。

絶対に休憩を先に決めておかないと、私の頭は、私の体に無理をさせる。
もはや私は20代ではないので、無理をすると、ぼろぼろになる。

しかし、時には、ぼろぼろになる。
過去の問題を一気にやろうとすると、ぼろぼろに疲れはてることがある。
でも、やるしかないときは、やるしかない。

今日は、そこまでいっていない。
だから、快適さを優先。


目の前にあるのは、ただ、やらなければ変わらない現実と、溜め込みぐせのある自分だけ。

しゃあないわ、と受け入れる。


諦めと受容は、よく似ている。

仕事を溜め込む私と私は付き合っていくしかない。
それが私だ。

と、納得する。
自己受容のプロセス完了。

ちん。