パターン。すると次に起きたこと。
ひとつ前の結果です。
そうすると起きたことは、以前の私の習慣が戻ってきました。
以前、私は、毎晩夜眠る前に漫才を聞いていました。
その日がどんな一日でも、最後は笑って「終わりたかった」からです。
あまりに疲れた日には、音楽を聞いてリセットしてから一日を終えることにしていました。
次の日に今日を持ち越さず、今日は今日で「終わりにする」ために。
つまり、私は、以前は、ちゃんと一日を終えていたのです。
昨日、たまたま、漫才のトーナメント番組がありました。
私はそれを観ながら、漫才を何本か聞き笑った後、すやすやと眠りにつきました。
そしてぐっすり眠りました。
偶然も重なって、私は、昨年のどこかから、習慣が韓流ドラマに「置き変わっていた」ことに、私は気づきました。
「習慣を変える変化は、今起きる必要があったわけではなく、すでに起きていたのです」
どこかはいつか?
(文脈的にクリーンな質問を使うなら、「そして、そのどこかはいつですか?」)
自分に問いかけると、去年の11月だと、はっきりと答えが返ってきました。
11月。
それは、父が事故にあった月でした。
私は、自分が何をしようとしていたかに気づきました。
韓流ドラマを延々と見続けることで。
この場合、韓流ドラマはレメディの働きをしています。
(問題を先延ばしにして、問題を生んでいます。韓流ドラマそのものは、私のリソースです)
漫才は、終えるためのリソース。
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私がブログを書く作業は、子供の頃の日記から続く俯瞰と観察の作業です。
そして、私のリソースの行動です。
書くことで、私は多くに気づきます。
私の体は、リソースを使って、何が起きているかそのままを、私に見せようとしたのでしょう。
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表面に現れていた問題は、寝る前に韓流ドラマを見続けること。
裏にあったパターンは、「終わりが嫌い」
そのパターンが始まるきっかけは、人との別れを私が察知したとき。
そのパターンが生み出す問題は、タイミングを外すこと。
(この場合は眠るタイミングがずれて、翌日眠い)
問題に出会わないようにするための最大限の私の努力が、「今日が終わらないようにするために韓流ドラマを見続ける」こと。
つまり、このパターンは、レメディでした。
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そして、これらが全てこのようであるとき、私は何が起きれば好いのでしょう?
日々を、悔いがないように、精いっぱい生きること。
それしか自分にできることはないのだから。
精いっぱい、私の愛を伝えること。
精いっぱい、楽しむこと。
自分自身のパターンを辿ったところで、現実に対する深い受容が、私の中に訪れました。