メタファーの定義 | 主に国文学、英文学出身の方向け
意外にここに該当する人の人数がいるのがわかってきたので、メタファーの定義について書いてみましょう。
クリーンランゲージやシンボリック・モデリングで、メタファーに関わり始めるとき、主に、国文学、英文学関係の学部に所属していたことがある人たちが、メタファーの「感覚」に違和感を覚えたり、引っかかったりすることが、ちょいちょいあります。
私も最初、違和感がありました。
ただし、私は、クリーンランゲージではなく、それ以前の心理カウンセリングの勉強をしていた時に、最初ひっかかりを感じました。
自分が既に持つ知識が新しい知識の吸収を邪魔するパターンです。
文学の分野でメタファーといえば暗喩(隠喩)に限定されますが、これはですね。
クリーンランゲージ関係では、言葉としては、英文学のレトリック(修辞法)にあたるものは全て、メタファー、と言っています。
何かを何かに喩えていたら、それは全部メタファーです。この場合。
それ以上に細かくは分類しません。
(シンボリック・モデリングでは、別の分類があり4種類にわけますが、文学上の分類とは基準が違います)
クリーンランゲージを作ったデイビッド・グローブがこのあたり定義やなんやに大雑把な人だったのではないかと推測しています。
彼は学者ではなかったから。
そして、文学のメタファーと、この場合のメタファーには大きな違いがあります。
この場合のメタファーは「体験」です。
ただの言葉ではなく、そこに、その言葉を発している人は、内側で、その言葉通りの体験をしている、という考えがあります。
だから、例えば、「猫みたい」と誰かが言えば、その人の内側か周りかどこかに猫がいると扱います。
言葉は現実を作る、と言われて久しいですが、この場合、現実を作るを通り越して、言葉は現実です。
あたかも。
普通の状態ではそうはなりませんが、サイコアクティブという精神活性化した状態になった人にとっては、本当に、言葉はただ自分が体験している現実を描写しているだけのものになります。
これは体験してみないと、なかなか感覚はわかりにくいかもしれません。
その世界では、あの人は猫みたいと言おうと、あの人は猫だと言おうと、そこに違いはありません。
そこには、ただ、猫がいるだけです。
また、引っかかる部分もありますが、国文学、英文学を学んだことがある人が有利な点もあります。
それは、修辞法に慣れていて、拾うといいクライアントの言葉を最初から見つけやすいこと!
テストで、修辞法を使っている部分にチェックをいれたそこ!、そこ!が、拾う言葉です。
言葉は使用場面によって定義がさまざま。
人によっても異なります。
あの人は猫というとき、その猫は何色の猫なのか?どんな猫なのか?
その猫の定義は、やはり人によって異なります。
これを、メタファーの意味、と言います。
メタファーが持つ意味は人それぞれ。
その人それぞれをどこまでも尊重しようというのが、クリーンランゲージやシンボリック・モデリングの基本原則です。