当たり前のことには気づきにくい話
私は、当たり前の、けれど、私にとってはものすごいことに気づきました。
それは、クリーンランゲージやシンボリック・モデリングが私のリソースだということに。
この場合のリソースの定義は、好き+持っている、です。
そこに関わることならば、私には、努力、が必要ありません。
私は、努力は苦手です。
ちなみに私個人の概念上、私の努力の定義は自分が好きではないことに、時間と手間を使い力を注ぐこと、です。
好きなことのために時間と手間を割くことは、私にとっては努力ではありません。
その場合は、頑張り、頑張る、という言葉になります。
私は基本的に快楽主義者で、自分が苦しいことをやるのは好みません。
同じ内容が必要で選択が可能な場合は、可能な限り、自分が苦しくない方法を探して選択します。
それで、人から見た私の努力は、私個人は努力とは感じていないことがほとんどです。
話は少し飛びます。
数年前、私は、「ああ、もう、勉強したり、ブログやなんかを書いたりするだけで、ご飯が食べられるようになりたい。
自分が勉強することが誰かの役に立ち、それだけで生活できるようになりたい」という願いを抱きました。
つまり、自分が好きなことだけを仕事にしたいと思いました。
そしてそれをSNS上でも呟き、夫にも話しました。
その時、私には、その方法がわかりませんでした。
今年、私は、シンボリック・モデリングの使い方を教えはじめました。
実際、もう学ぶことの連続です。
今、2回目のイントロダクションをしています。
前回もそうでしたが、人はこんなに質問するものかというくらい、毎回、質問が飛んできます。
それに答えるのが楽しいことに、私は気づきました。
自分の知識や経験が、セッションのファシリテーションだけではなく、知識そのものとして他者の役に立つことに自分が喜びを感じること。
そしてシンプルに、私は、話すのが好きなこと。
なおかつこの場合、話す内容は、自分が好きなことです。
ワークショップをしている最中は必死ですが、録画を見直すとそこには、誰よりも楽しそうな表情をして講義している自分が映っていました。
見返すとき、話し方をもう少し工夫した方がいい、とか、ここはもう少しこうした方がいいとか、冷静に自分を他人のように眺めながら見直します。
けれど、それらをおいておいた時、この人むちゃくちゃ楽しそうだという自分がそこに確かにいたのです。
これだったのか、と、今朝、私は思いました。
今年はじめた暮らしが、私が望んだ未来だったのかと思いました。
毎度、頭が気づくのは後なことです。
2016年以降、もはや毎度おなじみ、自分が何かを願い、それを言葉にしたあとは、私の体が先に動いていました。
頭はようやく気づきました。
私が望んだ暮らしが先に待っていた、だから、自分がセッションを提供するにはもう十分だったのに、自分はシンボリック・モデリングを学ぶことをやめず、知識を深めようとし続けてきたのかと思いました。
10年頑張ったその結果、私が手に入れたものは、ずうっと好きなことを考え続けていい自由だと、今朝、私は気づきました。
そして私が手に入れる自由が、誰かの幸せや喜び、誰かの暮らしをよりよくすることを手伝える可能性があること、そういうことを自分が望んだことを知りました。
生徒さんが楽しそうに笑う顔が画面に映っていて、それを見て、そこに気づきました。
そういうことに気づいた朝でした。
ならば、やることが山のようにある、ということにも同時に気づきましたが。
「私はそんなに長い間、トレーニングはやりませんよ。誰か他の人が登場するまで」と私が言ったとき、それを聞いた人たちは全員笑いました。
みなが笑った理由に気づいた朝でした。
みな、今朝、私が気づいたことに、とっくに気づいていたのでしょう。
まあ、そんなもんです。