フランチェスコからの。

 昨日の続き。

今日はいつでも昨日の続き。


昨日はなかなか充実した一日だった。


まず、朝8時から聴き流していたClubhouseの早朝礼拝が面白かったので、途中で聴くのをやめた。

面白かったのに、なぜ、途中で聴くのをやめたのかというと、その礼拝をライブで聴こうと思ったからだ。

関西の教会の知り合いの牧師さんがやっているチャンネルだったからだ。


それで、出かける準備をして、電車に乗って、駅前に美味しいパン屋さんがあるところまで、その礼拝に参加するために出かけていった。

礼拝はどこの礼拝に参加してもいい。

いろんなところを回るのも楽しいかもしれない。


私のこのノリは、神社に参拝に行くノリと似ていると思う。

個人的には、以前神社だったのが、教会に変わっただけ。

神社に行くと、体と心がすっきりしたが、今、それと同じことが教会に行くと起きる。


プラス、胸がとても温かくなる。

私は、愛と希望と平和が大好物だからだ。

これは神社では起きなかったので、教会が私の性にはあっているのだろう。

街中にあるのも。

(私は生まれも育ちも都会っ子。)



というわけで行った先で、手をアルコール消毒をして、熱を測って、教会の椅子の隅っこにちょこんと座った。


やがて、牧師さんが現れて、あれ?いらっしゃいと笑いかけてきたので、「こんにちは」と笑った。


教会の中は、人が少なくてがらんとしていた。流行りの関係で、オンラインと混ぜて開催されているからだろう。


そして、それから始まるまでの間、その日の礼拝の資料(聖書をコピーしたものと、しおりと、1週間のお祈り用の資料)をペラペラ読んで過ごしていた。



聖書は、ああ、この一節は、ブログにも書いておこうと思うところだった。


「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分にあります。」


マタイの福音書 634



それから、話は、アッシジの聖フランチェスコの人生のお話になった。

私が好きな「平和の祈り」を生み出したとされている人だ。


フランチェスコの本名はジョバンニだったけれど、お母さんがフランス人だったので、フランス風にフランチェスコというあだ名で呼ばれていたという話。


フランチェスコは、捕虜になって夢に破れて、それからいろいろ大変で、そんな中から、「ものみなこぞりて」という賛美歌が生まれた話。

作詞フランチェスコ。

古い古い賛美歌。


https://youtu.be/VfgDnZRUxAk


光の源なる日を造りまし、とか、

互いに助る心を賜し、とか、

月影さやかにみ空に輝く、とか、

小川の流れはほめごとささやく、とか、そんな歌詞。


そこには多分、体験を伴う感動があったんじゃないかと思うと、牧師さんは言った。

生かされている喜びに溢れていたのだろう、と。


フランチェスコは、ロマンチストな人だったのかなと、私は思った。

歌詞がなんかラブソングみたいね、と。


まあ、つまり、賛美歌はラブソングみたいなもんではあるけれど。


それから、ものみなこぞりてをマスクの中で小さな声で歌った。

ほんとは、歌ったらあかんかったのだけど。



礼拝のあと、駅前のパン屋さんで、昼ごはんを食べた。


気分がとてもよかった。


それから帰ってきて、仕事をした。



そして、今朝目覚めて、昨日書いた「英語の時の方が自然で伸び伸びしている」らしい自分の文章について考えた。


文法以外に、やることがもう一つあると気がついたからだ。


母国語の文章が自然で伸び伸びしてないとは、これどういうことや?という話である(笑)


つまりそれは、思考が自然で伸び伸びしていないということだからだ(笑)


気を使ってんですよね、多分ね。

英語でならきつくなくても、日本語だと、自分の意見を本当にはっきり書くと、きつくなっちゃうからね。


と、そこまで来て、ほんまに?と思った。


英語のブログ、日本人に好評やのに?と。



ほんまに?

単に美しく逃げてるだけじゃないの?


単に、あなた(私)の人間不信の現れじゃないの?と。


あなた、「日本人」を心底は信用していないでしょう?


自己中心的で、能動的に動かないで文句ばかり言うと。


ほんまにそうか?

それは、「古い古い時期の思い込み」ではないの?


それは、どうも、今、あなたが住んでる日本の話ではないようだけど、その古い古い思い込みを、そのままにしておいていいの?

あなたが今、人生で、見て聞いて体験している事実とずれているみたいだよ。


一緒に働いている人も、家族も、友人も、そのほとんどが日本人でしょうよ、あなた。


ほんまに?

このままでいいの?



信じるものがもたらした充実した一日は、翌日、信じていないものを、ぶち込んできた。


ジーザスは、スーパーコーチでもある。

優しいけれど、気づかせるためなら、容赦しない。


それは、私は一度死にかけてるので、よく知ってる。

気づかせ、変えるためなら、どこまででも追い詰める。

全財産剥ぎ取るくらいは、ジーザスには楽勝である。

救うためならなんでもやる。


そりゃジーザスに限らず、どの神さまでもそうだろうが、神さまにごまかしは通用しない。

人には取り繕えても、神さまに取り繕える人はいない。


ただまあ、ごまかしを薦めるのは、神さまではなく、キリスト教的には悪魔や悪霊だし、その他の宗教でも、邪なるものだ。

ほんで、邪なるものは、神さまのふりができる。

ものまね芸人顔負けだ。


(という世界観を私は採用しているというだけ。これが事実かどうかは知らない。真実だと思えば真実だし、嘘だと思うなら嘘。世界観はそんなもの。

信仰は世界観にすぎない。ただし、信じる力はすごい。宗教に限らず、信じたものが、その人の人生や世界を作る。

1人の人が信じていることは、戦争すら生み出す。)


普通に言うなら、気の迷い。

役に立たない思いつき。

まあ、誰にでもある。


(私はだから、思いついた「とてもいいアイデア」のせいで、死にかけたのだから。コンディションが悪い時の「いい思いつき」はだいたい最悪。)


Mな人か、自分の賢さに溺れる人か、神さまの力をみくびる人はそっちを選ぶかもしれない。

どん底を味わうが早いという説もある。

しかし、私は、後からひどい目にあうのもいやだし、もう若くないからそれはしんどいので、ジーザスが優しい間に考えることとしよう。

ジーザスであかんかったら、父ちゃんが登場するからなあ。。。

父ちゃん、容赦ないんだよ、怖すぎるわ。

(同じなんだけど、父ちゃんの要素は、ジーザスよりやることきつい。)


不信感は、割と大きいテーマであるしね。

古いもんはいらないの。



「自然な文章が日本語では書けていない、英語では書けている、自分の中に不信感がありそう、それは古い古い思いこみ。


これらが全てこのようである時、あなた(私)は、何が起きればいいの?」


え〜とねえ。