ゲームの達人

一般に意識が変わる最短が、3週間といわれておりますが、英語学習のコーチングプログラムに参加し始めて、ちょうどそれくらいを過ぎた頃、私に小さくて大きな変化が起きた。

プログラムの3回目と4回目の間に、2週間のおやすみがあった間だった。


毎回、次回までに自分がしてくる宿題を、プログラムの最後に決めるのだが、私は、「楽しんで英語を勉強し続ける、を探求してくること」をその間の宿題にしていた。

それで、自分で自分にセッションした。

日本語の時と同じように、英語で、紙面で。


セッションの終わり、私は、「全ての学びはゲームと同じ」というところにたどり着いた。

自分にとっては、学ぶことそのものは、ゲーム。


学ぶ目的は、いつも、別にある。

けれど、学ぶことそのものは、ゲームと同じだと。


私は、ゲームをするのが大好きだ。

小さな頃からずっと好きだ。


ゲームのルールを覚えて、こつこつレベルをあげて、遊び仲間と助け合い、効率的にレベルをあげる。

こつこつモンスターを倒す。


ゲームのルールが文法で、スライムが単語だ。

こつこつレベルをあげるには?

こつこつゲームをやるしかない。


大丈夫。

私は、優秀なゲーマーだ。


私は、あるオンラインゲームで、一度、世界一になったことがある。

これは、歳をとって老人になっても自慢し続けるに違いない、私の人生の中での一番の自慢である。

流行り病で、一時期仕事も減り、外に出れなかったおかげで生まれたたくさんの自由時間のおかげで達成された偉業といってもいい。

その間、私は、ずうっとゲームをしていた。そして、世界一になった。

瞬間的ではあるけれど。


これを抜く偉業を、この後どんなに生きても、私は達成しないだろう。

例えば、他で何か他の人から見てすごいことが起きたとしても、自分の中での評価では、この偉業は抜けないと思う(笑)

(今、私が子供なら、私はe-sportsのプロを目指した自信がある。)


ただこの話には続きがあって、その後、「一位の座を守るプレッシャーで腰痛になる」という、残念な結果となり、「一位を諦めろ」といろんな人に言われ、渋々、一位を諦めてみたら腰痛が治り、自分に世界王者は向いてないという大きな気づきを、私にもたらした。


なってみなければ自分が世界王者に向いているかどうかはわからないので、なったからこそわかったこと!



ともかく、話がゲームになった後、私の頭の中が変わった。


私は「ゆっくり成長する」ことを受け入れた。


それから、「わからない単語」という概念を捨てた。

それは、わからないんじゃなくて、「新しい」か「今から覚える」言葉だ。


そして、そのセッションの終わり、私は、英語そのものへの好奇心を取り戻した。

よし、ゲームの達人になろう!とワクワクしたからだ。



それから、私は、韻とピッチを練習するために、英語の子供向け動画を見始めた。

発音練習用の動画も見始めた。


ゲームスキルは高いにこしたことがない。

ゲームの世界でなら、世界王者を狙う人である、私は。(向いてませんけど。)



私はガンガン文章を書き始め、あちこちで失敗しはじめた。


大丈夫。

ゲームなら、やり直しがきく。

(実際には、その失敗のフォローを焦りながらしていたとしても。

 やり直しがきかないことも中にはあるかもしれないが、英語を間違えて死ぬことはない。)

頭の中が、失敗を怖がらなくなった。



私は隙間を見つけちゃ、英語を勉強しはじめた。

隙間があると、正しいゲーマーの有り様としてゲームしていた。

勉強する時間は、勉強する時間として存在していた。

けれど、今、ゲーム時間が、ほとんど全て、英語に置き換わった。

すると、勉強する時間は、翻訳する時間におきかわった。


どうやって、時間を作り出せばいいのか考えていたけれど、もう、時間を考える必要がなくなった。


そして、継続しようとする努力は必要なくなった。



英語学習がゲームならば、そんな努力は必要ない。

ゲームをするのは、そもそも、私の日常だ。


アトミック・ハビッツという習慣のすごさを語っている本があったが、これならば、新しい習慣を身につける努力はいらない。

すでに持っている習慣が使える。



ただ、頭が、体が、英語学習をゲームだと認識してくれればよかったのだ。



学習はゲーム!となったあと。




間髪いれずに、とあるパズルが届いた。

心が燃えた。



パズルは、英語の音声付きスライドだった。

日本語と英語の文法の違いが、どストライクで出ているパズルだった。


私は、パズルも大好きだ。


どないすんねん、これ?とすぐに思って、それから、さあ〜、これを、日本語で、どう説明する?とワクワクしはじめた。


普通に訳したら、日本語だと全く意味わからんで、これ。

でも、要素は同じだ。

同じことが起きる。そう思った。


そして、同時に、そのスライドの中の英語の音声に、涙が出そうなほど、感動した。

ひとこと一言、区切って話してくれていた。


誰にも、聞き取れるように。

世にも聞き取りやすい英語である。


まさに、愛だ。

こういうのが、愛だと、私は思った。


私は、愛も大好きだ。



そして思った。

私がこの数年、学び続けたものは、愛だ。


「サポートするってどういうこと?」



ゲーム、パズル、好奇心に愛。



さあ〜、パズルだ、パズル。


私は腕まくりした。



ゲームにパズル。



それから、ふん、と、笑った。



ただいま、私の人生に、と思ったからだ。

自信満々に生きていたあの頃の私におかえりだ。


パズルやゲーム、遊びにならば、私は大層自信がある。

そして、やり方もうまい。


年季が入ってますからね。


なんだか、どこか間違えた世界に迷い込んでいたところから、自分がすむべき世界に帰ってきたような気分になった。



学ぶ最中に道に迷ったな。

まあ、ようあるこっちゃ、と思った。


そして、なんだ、1ヶ月前に登場した私のメタファー「新しい日常」って、よくルールを知っている世界のことを自分は言っていたのか、と思った。

ただし、今度のゲームは、「現実の中に影響を及ぼす」「人生に影響を及ぼす」


画面の中だけに、結果は生まれない。

現実に、人生に結果が出る。



私にとって、学ぶことはゲームだ。

使うものは、愛と好奇心。

そして、翻訳は、パズルだ。



さて、設定ができた。


はい、進みましょ、と私は思い、来週までの宿題の一つ、文法ドリルを5ユニットやるの1ユニット目に手を伸ばした。



で、終わって、これを記録として、今、書いた。


今、11時。

ここから仕事を始めて、また、休憩でゲームをして、夕方仕事が終わったら、またゲームをする。

眠る前にもゲームをする。


その昔、ゲームはやりすぎると怒られたものだが、このゲームはどんなにやっても誰にも怒られない。

このゲームは、やればやるほど、人にも褒められる。

そして、話はきっと、このゲームだけでは完結しない。


なんと面白いゲームを手の中に持っていたのだろう、どうして、気づかなかったのだろう?と、私は不思議に思った。


そして、目指す場所が見えた。



一番最初に、英語で読んだ本。


「Master of the Game」


ゲームの達人、だ。