荒ぶる波立つ湖に浮かぶ船
その荒ぶる波立つ湖に浮かぶ船の上には、何人かの人が乗っている。
そのうち、1人は眠っている。
向こう岸に船に乗って行くと決めた人だ。
今にも船は転覆しそうだが、船は、「絶対に沈まない」と「決まっている」。
なぜならば、向こう岸に渡った場所へ行く「必要」があり、湖を横切るしかそこまで行く「道すじ(プロセス)」はない。
今、起きていることは、問題ではなく、通り抜けるしかない過程(プロセス)に過ぎないからだ。
だから、船は絶対に沈まないと知る人は眠っていた。
アウトカム(ビジョン、望み)を抱いた人は、ただやり過ごそうとしていた。
そこについていった人々は騒いだ。
それで、眠る人は目を覚まし、そして。
ここからは、やり方がいくつかある。
沈まないと知る人にとって、荒ぶる波は問題ではない。
しかし、沈まないと知らない人にとっては、恐怖以外、何ものでもない。
このものがたりには、原典がある。
原典では、目を覚ましたその人は、荒ぶる波を沈めることで、騒ぐ人々を落ちつけた。
その人はそういうことができる人だった。
もうひとつ、また違うものがたりに登場する人は、きっと違うやり方をしただろうと推測する。
船は沈まないのだから、波はそのままに、怖がる人々の心にアプローチし、心を沈める方法をとったのではないかと思われる。
きっと言う。
その恐れは幻だと。
やり方違えど、恐れを取り去ることは同じだ。
恐れの原因となっている現実に対処するか、現実は変えずに心の恐れに対処するか。
違いはあるけれど、恐れる人々に起きることは同じだ。
心が静まる。
アプローチの違いがあるだけだ。
信じて現実に対処すること、心に対処すること、どちらでも同じ結果は出る。
どちらが結果が早いかは、その時々、きっと違うだろう。
そしてもうひとつ、寝ていた人のように、最初から見ないという方法もある。
時が来れば治ることで、自分はどうもできない、見れば恐怖を感じるようなことは見ない。
果報は寝て待てアプローチ。
どれがいいかは単なる好みだなあ、と最近思う。
私ならどうかな。。。
寝て待つことが多い気がする。
私の心は、見れば恐れという幻におそらく捕まるだろうし、波を沈めるミラクルな力は持たないし、波はそのままでいいんじゃないかと思うし。
自分に現実的に迷惑がかからないなら、波もやりたいようにやればいい。
見れば怖い。
だから、見ない。
寝る。
そして、夢を見る。
湖を渡った先に広がる景色を。
向かっているのは、見たい景色が広がる岸辺だ。
湖の上で恐怖に震えた人々に、船に乗る前に、向こう岸で待つことを語らなかったのが眠る人のミスだな、とふと思った。
この人はなんでもそうする理由は語らない。
みんなをびっくりさせるのが好みなのだ。
周りは、ビジョンがわからないから、余計、怖かったに違いない。
あ、でも、そうするとものがたりが生まれなかったから、それでいいのか。
驚きは、ものがたりを魅力的にする重要な要素だ。
なるほどねえ、とひとりで感心してみたりしながら、空を飛ぶというやり方もあったような気がする、とかまたいろいろ考えたのだった。
それにしても、古いものがたりを自由にいろいろ考えられる自由があるとは、いい時代である。
これ、普通に書いてますけど、時代が違えば、私、明日には火あぶりです。笑
21世紀って素敵。