流れの中に立ち寄るやり方

直接、自分の人生の本筋には関係しないが接点は持つ現場。
ようは出来事の主人公は自分ではなく、シナリオのベースを書いている脚本家は別にいる他人の人生という現実。

その現実のテーマは、自分では決められない。
自分の人生ではないのだから。
流れは、自分の人生とは別だ。


これまで、私がしてきたサポートは、主に、その現実から少しの時間抜け出してきた人に対して行うというスタイルを取ってきた。
つまり、ご相談があれば、話を聞きますというスタイル。

その前は、ひとつの流れ、どっぷりその現実の中でもまれながらするというスタイルだった。
つまり、会社の中で働いていた。


最近、どうも、自分が意図せずして、もう一つ、違うスタイルが、人生に加わったようだ。
加わっていたことに、今日まで気がつかなかった。


それは、流れの中に、自らが一瞬だけ入っていって時間を共有する、というやり方だ。
ほんの一瞬。
流れ全体には関係しない。


自分は、ひとりだ。
その一瞬は、自分の人生には、何の意味も持たない。
ほとんどの場合、ややこしい状況がそこにはあるので、自分の人生にからめて意味づけすれば、わけがわからなくなる。

それは、普段と心の使い方が少し違ったので、最初、私は戸惑った。

やがて、セッションの時の心の使い方でいけるかな?と気がついた。
判断しない、評価しない、そのまま受け入れる、自分の感情を使わない、終わった後には全部忘れる、という心の使い方だ。

これは上手く機能した。
体が覚えてくれていたことに感謝した。

そして、それにしても、何が変わったのか?と考えた。
何かが変わった。


今日、友達が連絡してきた。
友達は、自分に起きていることを伝えてきたのだ。

そして、友達と話すうちに、ああ、そうかと私は理解した。

自分はそこにいるのに、自分には何の関係もない流れが存在すること。
一瞬以外は、なんら関係しない流れというものがあること。

その一瞬、そこにいることだけがサポートになる類のこともあるということ。
それらは、自分の人生においては、全く意味を持たないこと。

起きたこと、その瞬間、が全てであり、それ以外には意味がないこと。

自己受容と自己肯定ができなければ、気を抜いたら、潰れてしまうこと。
どのようであっても、そこにいる、それだけに意味があること。

心がポカポカしている状態で。


そして、この世は全て幻か?という気分になった。


そしてそれから、これはつまらない、と友達と笑った。
若い頃ならお断りの心境だ、と。


心がポカポカしていることをベースに選ぶ人生は、楽しさや喜びをベースに選ぶ人生とはまた違う感じがする。

流れに入っていく感じは、今までよりアクティブな感じがするが、心は受容的。


これは(自分にとっては)新しいかも、と、私たちは笑った。


そして、友情というリソースは、いかなる時も、どのようなやり方をしても、ついてくるらしいな、と私は思った。