偏った世界観
相手の世界観を尊重する、という技法を、私は好んで使う。
しかしはて、自分が住んでいる世界が、どれくらい目にする情報に左右されるかを、1週間ほど実験してみた。
つまり、世界観は、どれくらい経験を伴わない情報に左右されるかを実験した。
インターネットがなかった昔と異なり、非常にたくさんの情報を人は目にする。
そして、人の心理についての研究も進んでいるから、情報を発信する側は、特に意図を持つ文章を発信する時に、心理的な作用をそこに組み入れて文章を作る。
共感を得られるように。
そこに、映像と音声が絡めば、人はより影響を受けやすい。
それらに自分の世界観がどれくらい影響を受けるかを、試してみようと思ったのだ。
きっかけは、ある一日だった。
ある一日、私は、たまたま、スマホもテレビも何の文章も見ずに過ごした。
それは、とても平和なよく晴れた一日だった。
私は、とても穏やかな気持ちで、一日中、幸せな気分だった。
翌朝、スマホでニュースを見た。
大事件がいくつか起きていた。
きな臭いことも起きていた。
未来を不安に感じさせるコメントを出している評論家もいた。
私は、自分の感覚と、スマホに並ぶニュースに解離を感じた。
まるで別の世界の話のようだ、と思った。
それで、私は、次の日から、目にするニュースをあえて選んだ。
ある日は、幸せなニュースばかりを選んで読んだ。
ある日は、環境問題ばかりを読んだ。
ある日は、経済ニュースばかりを読んだ。
ある日は、芸能ニュースばかりを読んだ。
ある日は、貧困問題について書かれたものばかり読んだ。
ある日は、宇宙の話。
ある日は、気候の話。
ある日は、健康問題。
ある日は、精神的な話。
記事を選ぶのは簡単だった。
最初のひとつを選びさえすれば、そのニュースの下に似たようなニュースやリンクが勝手に現れてくれる。
出てくる単語で検索をかければ、いくらでも読むものが現れる。
スマホは、使う人の世界観を素晴らしく尊重してくれる。
まるで、世界には、そのカテゴリーばかりがあるような錯覚になれた。
どの分野も、それは重大な話題のように見えた。
日によって、世界は、平和なようにも、心温まる場所のようにも、世知辛いようにも、未来は絶望的なようにも、希望があるようにも、軽薄なようにも、見えた。
怒ってる人が集まっている場所もあれば、お花畑を飛んでいる人が集まっている場所もあった。
本当のところは、それらは、世界を構成する一部分にしか過ぎないのだけど、まるで、それが世界の話題の中心みたいに見ることができた。
そして、私は、自分が簡単な人だと理解した。
私の表面的な気分は、読んだニュースに影響を受けたからだ。
現実的には、私は、それらのどれも経験していない。
私の日常は、取り立てて問題はないままだった。
でも、住んでいる世界は、コロコロと姿を変えた。
最後に私は、youtubeでワイドショーとニュースを見たおした。
そこには、また、別の世界があった。
ちょっと残念なくらい、ニュースで芸能情報をやっていて、やや国の未来が心配になった(笑)
たまたま、私がそれをした日は、選挙の次の日だったのだが、トップニュースに芸能情報を持ってきたニュースがたくさんあって、だめだこりゃ、と呟いた。
ワイドショーじゃなくて、ニュース。
呟いたあと、いやいや、世界観は尊重せねばならないと訂正したけど。
芸能情報がトップニュースという世界もあるのだ。
いや、選挙だろう、隣国との関係だろう、経済だろう、環境だろう、というのは、価値観の押し付けだ。
多分ね。
そして、世界観って、ほんとに多様!と理解した。
また、もしかしたら、自分の、世界観なんてないのかもしれない、幻だ幻、という気分になった。
目にするもので、こんなに容易く変わるなんて。
果たして、本当に自分が知っていなければならない情報は、どれくらいあるのだろう?
この世の全ては知り得ない。
私は少し考えた。
そして、相手の世界観を尊重する、という現代的な意味をもう一度考えた。
それは、非常にコロコロと変わりうる可能性がある、固定的な世界観というものはないということを、もう一度、頭に叩き込もうと思った。
現代において、世界観は、内側や体験だけに左右されるものではなく、その変容は、スマホにも左右される可能性がある。
どういう世界に住みたいか?
その住みたい世界を作るには、スマホで目にする情報とどう付き合うかも関係しているかも、と感じた。
スマホの中は、新聞と異なり、ニュースが選べるから、いくらでも、偏った世界を作ることが可能だ。
そもそも世界観は価値観で偏っているものだろうが、外側の情報の影響によるさらなる偏りが、現代では可能だろう。
さて、私は、どんな偏った世界を作るか、どうしようかね、と考えた。
スマホのない時代には、帰れない。