二元論と願い
恐れのあるところに愛を、というフレーズがある。
知ってる人は知っているし、知らない人は知らないフレーズだ。
有名なスピーチに使われたこともある。
古い古いフレーズだ。
原文が日本語ではないので、日本語訳はいくつかある。
争い(諍い)のあるところに調和(一致)を
悲しみのあるところに救い(癒し)を
絶望のあるところに希望を
文章は続く。
その文章構成は、詩だ。
綺麗なフレーズが並ぶ。
私は、これが気にいっていて、たまに、このフレーズが入っている文章のまとまりを、心の中で、ぶつぶつ唱えてきた。
文章のまとまりは、全部で1分くらいの短さだ。
集中したい時とか、自分が何か提供する時とか、心を落ち着けてパフォーマンスを上げる必要がある時に。
そして、つい昨日まで、私は、この美しい文章のまとまりについて、何の疑問も持たずにそうしてきた。
そして、つい昨日、ん?と急に思った。
何にでも疑問を抱く女である。
自分が、美しいと感じるものにまで疑問を抱く。
好きな文章にも疑問を抱く。
つまり、自分の感性にまで、疑問を抱く。
超めんどくさい。
昨日、私は、仕事の待ち合わせに早くついて、花壇のへりに腰掛けて時間を潰していた。
そして、その詩を唱えた。
次に水をこくっと飲んだ瞬間、私は思った。
今の。
別に恐れの部分はいらないんじゃないか?
恐れがないところにも愛はあっていいでしょう、と急に思った。
恐れは問題、愛はリソースまたはアウトカム、または、サポート。
心で願うならば、リソースかアウトカムだけの方が効果があるのでは?
なにがどうだか、どうやら頭が、急に、文章に使われている言葉を、シンボリック・モデリングの中のPROという分類法で、分類したようだ。
この詩のような文章のまとまりは、問題対アウトカム(リソース)の対比で構成されている。
詩としては、美しい。
しかし、この文章を、本気で実現するためのツールとして使うならば、願いの文言として使うならば、この文章は、レメディ(問題回避策)だと、私の理屈くさい頭は分析した。
アウトカムだけの文章に変えないと、そこには問題が残る、と私は私に、文章を変えるように指示した。
私は文章を頭の中で作り変えた。
そもそも、頭の中でぶつぶつやることは、自分にしっくりくればいいので、なんでもいい。
愛を
調和を
希望を
救いを
癒しを
愛することを
理解することを
慰めることを
私のお気に入りの詩は、二元論的な詩から単なる願いへと変化した。
そして、そのあと。
私が仕事先に歩きはじめると、ふと、非常に現実的なアイデアが浮かんだ。
今まで思いついたことがないものだった。
それから、あるフレーズが浮かび、それは、私の思考に調和を生んで、私は納得した。
願えば早い。
文章は、アウトカムで作ろう。
その詩はやはり美しい。
しかし、私が、ぶつぶつ唱える時に限定すると、私がぶつぶつやる時は、それを現実にしたい時だ。
そして、ぶつぶつしている時は、それは自分ひとりの力では無理だと判断している時だ。
ひとりの力でできることなら、わざわざ願わない。
やりたいと思う必要はない。
やろうとやれば、それですむ。
だから、少なくとも自分には、文章をアウトカムのみで構成してぶつぶつやる。
それがわかりやすくて早い。
再確認した夏の日だった。
もとの文章は綺麗だから、今後もただ眺めると思う。