単語のちから

言葉なるものが、こんなにも人の思考回路を支配しているとは、とここ数年クリーンランゲージのセッションを提供する中でよく驚いたが、ここ半年、また驚きが多い。

耳をすますと、話がややこしくなるきっかけを作るキーワードのようなものがあることが度々登場するからだ。

クリーンランゲージは分析しないので、これはクリーンランゲージの技法ではない。
ただ、それを使ってセッションする時にはノートを取るので、クライアントが発した言葉そのままに気がつきやすい。

順調に思考が進んでいたのに、ある単語が登場すると、途端に話が空回りし始めるようなことが多くあったのだ。

ある単語は、人によって異なった。
そして、その単語を、その人は自分の定義では理解していないというのが共通していた。

定義が借り物である感じ。

それらは、人生の体験を通して得た単語ではなく、単語と定義を同時に知り、定義を記憶したのではないかと推測された。
いわば、押し付けられた概念だ。

やっかいなのは、それらの単語は、単語自体には何ら問題なく、むしろ一般的にはいいイメージのことが多いこと。
加えて、非常に抽象的な概念を持つ単語だということ。

そして、それらの単語が定義として意味するものを、まあ普通、人は体験しないだろうということ。

どちらかというと、理想の世界や、最高到達地点といわれているようなこと。
目指す場所を示すような。

人はそこを目指すわけだから、当然、体験は持たない。
持つのは目指している体験だ。

定義はある。


それらの単語を思考回路に加えた時、クライアントはリソースだと認識しているのだが、それは持たないものなので、リソースではなく、持っていないからリソースの働きをしない。

定義だけを知識として持つ。

だが、この定義が、思考に関しても定義しているため、クライアントは、その単語が登場すると自由な思考を失う。

単語を理解するための回り道も生まれる。

そのような図式かな、と推測された。


その単語を理解したいという場合は、それでいいけれど、そうでなく他に望みがある場合は、その単語を外す方が早いかもしれない。
実際、セッションで、単語を外すと思考が進むケースが続いた。


そして、私は、単語の威力に驚いているのだった。

自分の体験から生まれた自分の言葉で考えることの重要性も再認識した。