言葉遊び
くるくる回って最初の場所。
はじめに言葉ありき。
この言葉は耳で聞いた言葉。
今、私が最初の場所と感じているのは文字。
小学生から高校生まで、成績表の最初から最後まで、唯一パーフェクトだった科目、国語。
言葉遊び。
そこに英語をからめて。
遊び。
ルールブックを片手に。
ルールブックは、辞書、文法書。
英語は、言葉遊びをする人がそもそも多く、同じ単語をひとつの文章の中で、違う意味で使ったり、韻を踏んだり。
それを日本語にするときに、どうやればそのセンスを残してあげられるのかな、、、小洒落た感をそのままに、と私の頭はくるくる。
英会話の先生は翻訳もするので、相談してみたら、「それは本当に難しい。翻訳者の腕と感性次第」と。
それで結局、国語。
言葉遊び。
幼い私がこよなく愛したもの、ふたつ。
ピアノと本。
音楽と文章、言葉。
神さまは、私の手元に言葉を残した。
そして、言葉遊びをする私のサポートに、音楽を残した。
まじかよ、と思うけれど、退屈で大嫌いだったバッハの平均律が、私が英語と日本語両方使う文章の作業をする時のBGMで、バッハが頭が一番動く。
考えてみると、バッハは、左手と右手がそれぞれ旋律を奏でていて、2つの主旋律が絡み合ってメロディを奏でる。
だから、多分、英語と日本語の両方と作業するのと頭の中の動きが似てるのかもしれない。
2つが絡み合って、あたかも別の旋律が生まれる。
でも、どちらもはっきり奏でていなければ、ごちゃごちゃ。
イメージはきっとそんな感じ。
バッハは、ここでしか登場しない。
私の調子は、音楽でいくらでも変わる。
言葉遊びは、バッハ。
モーツァルトの頭おかしいんじゃないかという曲も、まあまあいける。
ショパンとかリストとか情緒的なのはだめ。
普段は好きだけど、この場合、感情が動いて邪魔になる。
感性と感情は、違う。
言葉遊びに、感情は使わない。
夢中なだけ。
そして、ああ、そうか、と思った。
この、ああ、そうか、は、納得。
でも、何が、ああ、そうか、なのかは書かない。