マインドセットのつづき。
マインドセットの続きがありました。
最近思った。
もしも、母が、幸せそうに生きていたら、そして叶わなかった夢を抱いていなかったら、私は迷わず、大学卒業後、心理系か哲学系の学部に入るために、アメリカを目指しただろう。
その気分は、おそらく、この数年、英語を通じて、私が味わい続けた気分だっただろう。劣等感。
気持ちが伝えられないもどかしさ。
私は、自分の精神が、精神科の医者をケラケラ笑わせるくらいヘルシーだと知るために、私は、病気になる必要があった。
医者は言った。
君、変な人だって言われるでしょう?
こんなに心が健康な人は珍しいからね。
薬だけで、君は治ります。
レアケースだね。
まあ、私が病気になったのは、祖父が死んだからだけれども。
喪失からの鬱。
グリーフだ。
そこから、私は、自分の養育者の座を、両親から奪った。
私は、私自身を、自己の養育者に定めた。
あの25歳、どん底の暗闇の中でした選択は、私の人生をひっくり返した。
29歳、逃げ続けた自分の人生がもたらした結果を、私は、自分の目で見た。
そして、もうしんどいことから逃げないと決めた。
あの春した選択が、私に、クリーンランゲージを諦めさせなかった。
しんどい、つらい、は、私が何かを諦める理由にならなくなった。
そして、今年、友人の死が私にまた選択をさせた。社会をよりよいものにと、願い続けた人だった。
人が死ぬまで気づかない自分に、情けなくて、涙は止まらなかった。
それから、戦争中の国で生きる友人が、私に人間の強さを教えた。
それから、私にできること。
学習サポート。
そして、何らためらいなく、前だけ見て、幸せそうに人をサポートし続ける人たちを、私は数年、見続けた。
その人たちの姿は、私に教えた。
母が私に見せ続けたものと同じものの、幸せそうなパターンを。
私の母は、いつも、誰かをサポートしている。
幼い頃から、母が、誰かのために手を貸し続けるのを見ながら、私は育った。
彼女のやり方は、自己犠牲、だ。
彼女が人をサポートすればするほど、彼女は疲弊していった。
ついでに、彼女は、私が生まれたときには、すでに、メンタルに問題を抱えていた。
それは、明らかに、彼女が育った環境の影響だと、彼女以外の家族全員は思っていたが、彼女だけが、そこには気づいていなかった。
私は、母に、今年、それを告げた。
私の父と、母の父を、母が混同していたからだ。
私は、「それは、あなたのお父さんがしたことで、私のお父さんがしたことじゃない。あなたが見ているのは、幻だ」と言った。
「死ぬまで、幻の中を生きますか?」と、母に、私は言った。
その瞬間、私は、選択をした。
戻らない50年、そこに、笑う母もいたのだということ、そして、自分がなぜ、今、人の学習をサポートする仕事を選んだか、その理由を受け入れる選択だ。
誰が、それを、私に見せたか?
母だ。
私は、一人では、じっとして宿題ができなかった。
小学一年生の時点ですでに、学校の勉強はつまらなかった。
先生は、一度聞けばわかることを、延々と説明した。
母は、一年生の私のために、教材を作った。
そして、毎日、スパルタに、私と一緒に宿題や、母が作ったドリルを、私と母はした。
その時、母は、ドリルが難しくて頭を抱える私を見て、確かに、楽しそうに笑っていた。
祖父のように。
母のように。
私に影響を与えたのは、祖父だけではない。
母もだ。
あと、ついでに、私が、ディスカッションできるのは、父が鍛えたからだ。
私が何を辿ってきたのか、何をヘルシーにする方法を探し求めてきたのか、そこに、私が育てた私は気づいた。
私が、好きなのは、文章だ。
言葉。
心理学や哲学に関わる言葉。
物語。
それは、5歳の日に見た、絵本が詰まった段ボール。
本を読むのが好きな娘のために、(正確には、私を黙らせるために)、母が用意したもの。
ひとりで読めるように、4歳の私に、母はすでにひらがなは教えていたから、私は一人で読めた。
その日、大量の絵本を見たおそらくは、小さな私は、何か選んだのだ。
そして、小さな私が選んだ世界は、おそらくは、ここから長い時間、私が向き合うものだ。
メタファー・ランドスケープ。
人を笑顔にし、幸せに、人をサポートできる、人の現実を変える絵本のような世界。
それを、学習するサポートをすることを、私は、選択したのだろう。
それを使って、人をサポートする人たちが、幸せそうだったから。
サポートする人が自己犠牲を必要としないサポート方法、それが、私が、探していたものだ。
あなたはもう大人。
自分のことは、自分でやろう。
自分のことは、自分で理解しよう。
誰に肯定してもらう必要もない。
誰から肯定されるより、自己肯定は重要。
私、手伝うから。
一緒にやろう。
大丈夫、怖くないよ。
あなたが見るのは、自分の中にある絵本。
美しく広がる世界。
それが、私が選んだサポート方法。
そして、私は思い出した。
私がセッションをはじめた時、私が思ったのは、いつかお母さんになる人たち、それからお母さんたちを幸せにしたいという思いだった。
お母さんが幸せじゃないとき、子供に起きることを、私が知っていたからだ。
2022年。
私が最期にしたセッションは、お父さん、のセッションだった。
もともと、私は、キャリアや仕事の話を手伝うことが多いので、そもそもクライアントの半分くらいは男性だ。
そして、私は思った。
私、お母さん、お父さん、そして、いつかお母さん、お父さんになる人たちを手伝いたい。
子供の笑顔に必要なものは、お母さんとお父さんの笑顔。
大人の笑顔。
私、大人の笑顔のために、働きたい。
よいお年をお迎えください。