川に洗濯にいくと、流れてきました

 

「主語は何ですか?」


これは、10月にアシスタントで入っていた英語で行われたシンボリック・モデリングのワークショップで、同時通訳の人がたびたび口にしていたセリフです。


日本人の参加者が何か質問するのを、英語に通訳してくれるときに。



続いて。


私自身の話。


私は、最近、ひょんなことから、自分の自己の統合に取り組みました。

なんとまあ、私の自己は7個あることに、私自身が気づいたからです。


それらは全てリソースで、何ら問題ありませんでしたが、7つは多いんじゃないかと思いました。


その作業の中、足の親指に、私自身が登場しました。

足の親指です。


この足の親指は、なんともスイートな記憶を持っていました。

私がまだ、胎児だった時の記憶です。


私は、「お母さんのお腹の中にいるときに、足を動かす練習をしていて、足の親指にビリビリっとした感覚を感じた、それが、私が最初に感じた自分だ」と言いました。


足の親指の話など、この20年、勉強で数えきれないセッションを受けた中で、一度も登場したことはありませんでした。


しかし、私は言いました。

「このビリビリがもう一度来て、そうしたら、8つ目の私が現れる」


そして、数日後、朝起きた瞬間に、私の足の親指がビリビリして、慌てて私は、ファシリテーター仲間に連絡しました。

続きをやって、と。


そうして、私の自己はひとつになり、新しい私のメタファーが現れました。


私はそのことを、クローズドのSNSで、シンボリック・モデリングのコーナーに書きました。

話がちょうど、知覚者のトピックがあったからです。


すると、大先生が、「そういうときは、自分を観察しなさい。思ってもみない変化があることが多いから」と、コメントを入れてくれました。


そして、私は、自分をしばらく観察していました。



次は、Netflixの話。


海外のドラマを見ていて、日本語字幕で、あれ?と思うことが続きました。


英語では、そうは言っていない単語を、日本語は「私」と訳しているのに何度か当たったのです。


英語は、HEARTCHEST

胸周りのもの。


それを、「私」と、翻訳者の人たちは訳していました。



また、私の話に戻ります。


私の変化の鍵を握っていたのは、私の足の親指でした。

私の足の親指にいた、まだ赤ちゃんですらない私の体験。


20年で、初めて、登場した記憶。



桃太郎の話に移ります。


「川で洗濯をしていたら、流れてきた」



これは、有名な1シーン。

メタファー・ランドスケープとして、クライアントが語るなら、おそらくは、かなりの数の日本語話者はこう語ります。


すると、何が起きるのか?


もしも、ファシリテーターがそこに違和感を抱かなければ、そして、日本語オンリーを話す人は、違和感を抱かない可能性が高いですが、ともかくこれを、ふんふんと受け入れたら。


起きることは、アウトカムの達成に、絶対に必要な2つのシンボルが存在しないメタファー・ランドスケープの展開です。


発展させてもさせても、アウトカムは実現しない。


なぜならば、そこに、おばあさんと桃という、桃太郎誕生に不可欠なシンボルが存在しないからです。



「主語は何ですか?」


クリーンな質問では。


川に洗濯に行くのは、誰ですか?

または、

誰が、川に洗濯に行きますか?


川を流れてくるのは、何ですか?

または

何が、川を流れてきますか?



桃太郎のこの場合、願いを抱いているのは、おばあさん。

これがセッションならば、おばあさんがクライアントです。

つまり、おばあさんは、セルフです。


自分が動かなければ(洗濯に行かなければ)、アウトカムのためのリソース(桃)が手に入らないことを、クライアントが理解できないまま、セッションが進むことになります。



次に、最近、私が練習している新しいパターンのセッションから。


ファシリテーターがセッションで止まるとき、そこに何が起きているのかをモデリングさせてもらっています。

今、5人ほど。


そこで起きていたことは、メタファーは違いますが、中味は似たようなことでした。


私の推測では、おそらくは、主語や目的語が抜けているのを見落とさなければ防げることもありそうな気がしました。



さて。


話は、「私」だけではない。

話は主語と目的語全部だと、私は気づいたのでした。


主語と目的語に、セルフが散りばめられている、私という名前ではなく。


クライアントの発言の全ての主語を明らかにする必要があると、私は、気づいたのでした。


誰が?

何が?



それから、ときに目的語。


誰を?

何を?



こちら、主語や目的語がない文章に使用するのはクリーンです。

問題ありません。




私の経験では、メタファー・ランドスケープの認知構造は、英語と日本語に差はありません。


ただし、同じように構造を手に入れるためには、その構造の構成要素の中に、日本語では、クライアントの意識上に、自然に現れないものがある。


そういうことなのだろうと、理解しました。



日本人が、主語を省略するのは、いつからなんでしょう?

昔から?


何でなんだろうな。

不思議だな。

調べてみよう。